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71 白いしっぽと見えない彼女 中編

 甘いコーヒーを飲み終えた頃、隣に伏せていた白姫さんの耳がぴくりと動いた。『そろそろか』という呟きから少しの間を置いて、処置室の扉が開く。看護士に一礼して出てくるのは大神さんだ。

 雪尾さんを抱えて立ち上がった俺に、大神さんが手短に説明してくれる。

 白瀬さんは呼吸も脈も正常で、怪我も無かったようだ。念のために頭部のスキャンを行ったが、異常は無し。貧血のような症状があり、気を失っているだけらしい。じきに目を覚ますだろうと聞き、ほっと息を吐く。


「よかった…」

「うん。まあ一応、今夜は病院ここに泊まって、意識が戻ってから明日もう一度検査してもらうことになったから……」


 大神さんの説明の途中で、ぱたぱたと忙しないスリッパの音が聞こえてくる。

 音の方を見やれば、照明が落とされた廊下の向こうから、スーツ姿の背の高い男がほとんど駆け足でこちらに向かってきていた。


「高階君、夏貴君!」


 名前を呼んできたのは、白瀬さんの兄である達央たつひささんだった。そろそろか、という白姫さんの言葉は、達央さんの到着を指していたようだ。

 勢いよく近づいてくる彼の整った容貌は、固く強張っていた。乱れた前髪を直すことも無く、少し息を切らせて尋ねてくる。


「妹は……」

「大丈夫ですよ、義兄にいさん。気を失ってはいますが、身体に異常は無いようです」

「……そうか……」


 大神さんが答えて、達央さんの肩の力が抜ける。少し落ち着きを取り戻したらしく、深い息を吐いてから一礼した。


「……ありがとう、夏貴君。急な頼みを聞いてくれて、助かった」

「礼はいりませんよ。奈緒なおの大事な妹だし、僕にとっても可愛い義妹ですから。それに、僕が到着したときには、すでに事は済んでいましたからね。むしろ彼に礼を言ってあげて下さい」


 大神さんはそう言って、俺を掌で示す。

 俺の方を向いた達央さんは口を開きかけて、ふと切れ長の目を瞬かせた。その視線は、俺の腕の中で丸まっている白い犬に向けられる。


「……雪尾、か…?」


 小さくなった姿に戸惑う彼の声に、俺は雪尾さんを抱く力を強くする。その腕を白姫さんの鼻先が柔らかく突いてきて、宥めるように青い目で見てきた。

 寄り添う温もりを感じながら、達央さんを見上げる。


「お兄さん、話したいことがあります」

「……」


 俺の硬い表情に、達央さんは眉根をわずかに寄せた後、真剣な顔で頷いた。




*****




「何か飲むかい?」

「あ……はい」


 ロビーに移動すると、達央さんが自動販売機で買ったコーヒーを差し出してくる。先ほど大神さんが買ってくれたものとは違って、無糖のものだ。


 その大神さんはと言えば、気を利かせてくれたのか、「それじゃ、僕は彼女に付いていますね」と白瀬さんがいる処置室の方を指した。足元では吹雪さんも目礼して『わたくしが見張っておきますので、ご安心ください』と伝えてくる。

 誰を何を見張るのか。どういう意味かなぁ、と笑顔を張りつかせる大神さんを、吹雪さんが冷めた眼差しで見ていたものだ。


 面会時間を過ぎたロビーの明かりの大半は消されており、明かりが残っている隅のソファに達央さんが腰を下ろす。それにならって、俺もL字型のソファの隣向かいに腰掛けた。一緒に付いてきていた白姫さんは、俺と達央さんの間に伏せるように身を置いた。

 苦いコーヒーに口を付ければ、先ほど口の中に残っていた甘さが消える。しばらくの沈黙の後、達央さんは俺に向かって頭を下げてきた


「まずは礼を言わせてくれないか。妹を助けてくれて、本当にありがとう」

「……」


 真摯な声に、しかし俺は口を引き結ぶ。缶を置いて、片手をコートのポケットに入れた。

 取り出したのは、白瀬さんの眼鏡と――青白く光る球体だ。ぽう、と淡く光るそれは、普通の人の目には見えないはずだ。だが、犬神筋であり霊力のある達央さんにはやはり見えており、訝しげに眉を顰めた。


「これは……」

「白瀬さんの『目』です」


 達央さんがはっと目を見開く。何か思い当たったのだろうか。頼りない光を放つ『目』を二人で見下ろしながら、俺は図書館で見たことを話し始めた。


 黒ずくめの男。カタシロという名。白瀬さんの瞼に入り込む指。取り出された球体。

 黒い靄を纏った、獰猛な雪尾さん。首を噛み千切られても動く人形が、嗤っていた。


「……人形は、白瀬さんに本当の事を教えたと言っていました。犬神が食べた、犬神のせいだって」

「っ……」


 達央さんの息を飲む音が耳に届く。伏せた目の先で、大きな手がコーヒーの缶を強く握り締めるのが見えた。

 その目線を膝の上で丸まって眠る雪尾さんに移して、小さな背中に触れれば、少しの温もりと震えが伝わってくる。


「……雪尾さん、泣いていました。白瀬さんに知られた、嫌われる……こわい、って。ずっと、ごめんなさいって、謝って」

「君は……雪尾の声を、聞いたのか?」


 掠れた声で、達央さんが尋ねてきた。頷くと、長い嘆息が彼の口から零れ出る。

 そうか、と呟いた達央さんは、膝に肘をつき片手でしばらく目元を覆っていた。やがて、落ちていた前髪をかき上げながら顔を上げたが、その目は伏せられたままだ。


「……雪尾の声は、出せないように封じていたんだ。妹以外の人間と契約を結べないように……それから、雪尾の声が、妹に届かないように」

「どうして、そんなこと……」

「雪尾が、何かの拍子であの子に本当の事を伝えてしまうことを防ぐためだ。犬神が見えない理由を知ったら……知られたら、どうなるか。君も見ただろう?」


 無邪気さの欠片も無い、獰猛に唸る雪尾さんの姿が脳裏に浮かぶ。あの時確かに、黒い靄を纏いながら、我を失って泣き叫ぶ獣がいた。


「もし真実を知って、妹が雪尾を……恨んだり、拒んだりすることがあれば、きっと雪尾はあの子の犬神ではいられない。恨みや悲しみに満ちた邪霊に成り下がるだろう。だから私達は、ふたりを守るために……いや、そうじゃないな」


 達央さんの声に苦いものが混じり、自嘲の笑みが口元に浮かんだ。


「私達は最初、妹と雪尾を引き離すことすら考えていたんだ。白瀬の家を、代々継がれる貴重な犬神を守るためにね。だから、雪尾の声を奪って、妹には何も教えなかった。雪尾を他の家に取られることが無いよう根回しして、邪霊になることが無いように妹に愛情だけを向けさせた。……結局は、妹と雪尾に全てを抱えさせて、私達は家を守ることを優先したんだ」

『達央、止めぬか』


 いつの間にか身を起こした白姫さんが、静かな声で窘める。


『自責するのは構わんが、それでは高階がお主を殴ることができぬ』

「殴る…?」


 達央さんは数度瞬きした後、ようやく目線を上げて俺の方を見た。揺れる黒い眼差しを見返して、俺は口を開く。


「俺は……もっと早く、白瀬さんにちゃんと話していればよかったって、後悔しました。こんな形で知らされるくらいなら、きっと、家族から、あなたから、教えてもらった方が、ずっと良かったんじゃないかって」

「……」

「確かに、あの時の雪尾さんは少し怖かったけど、それは、白瀬さんを守るためでした。白瀬さんの側にいたいって、ずっと、泣きながら言っていた。……それに、声が無くても、白瀬さんには伝わっています。雪尾さんは、白瀬さんが大好きで、側にいたいってことが。あなただって、白瀬さんに伝えたんでしょう?」

「どうして、それを…」

「白瀬さんから聞きました。……白瀬さんも、雪尾さんのことが好きで、一緒にいたいって、言っていたんです」


 目を瞠る達央さんの胸に、俺は握った拳をぶつける。とす、と軽い感触を伝える手の中には、白瀬さんの『目』があった。

 白瀬さんの眼差しは、決して弱いものじゃなかった。雪尾さんを好きだと言う声も表情も、まっすぐで強くて、温かかった。


「信じてあげて下さい。本当の事を知っても、白瀬さんは雪尾さんを拒んだりなんかしない。雪尾さんは、邪霊になんかならない。……きっと、ふたりとも、大丈夫だって思うから」


 俺と、白瀬さんと、雪尾さんの分を合わせて――殴るには程遠い小さな打撃だけれども、これが精一杯だった。


「だから、ちゃんと伝えて下さい。全部、話してあげて下さい。……白瀬さんと雪尾さんを、これ以上泣かせないで下さい」


 最後の方は、情けないことに声が震えてしまっていた。

 喉がひくりと音を立てて、吐いた息が途中で掠れて消える。咄嗟に俯いたのは、頬に伝った涙を隠すためだ。自分が泣いてどうする、格好つかないだろ、と歯を食いしばっていれば、頭に温かいものが触れる。


「……君まで泣かせてしまったら、それこそふたりに泣かれる……いや、怒られるな」


 苦笑と共に髪の毛をくしゃりと撫でられた後、俺の手の中にあった青い『目』を達央さんが受け取る。


「あの子が起きたら、全部話すよ。……ふたりを守ってくれて、ありがとう」

「……はい」


 短いお礼の声に詰まった感情は、顔を見ずとも伝わってくる。再び滲んできた涙が、膝の上の雪尾さんに落ちないよう拳で押さえながら、俺はしばらく顔を上げることができなかった。


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