69 白い夢 後編
どのくらい泣いていたのだろう。
頭を撫でる女性の「あんまり泣くと、目が溶けてしまうぞ」とからかう声に、ようやく落ち着いてきた私は鼻を啜って頬を手で拭った。温かな手が頭から離れることを少し残念に思っていれば、膝の上に冷たいものが触れる。
熱を帯びた目を数度瞬きしてから、下を見れば――
「……雪?」
はらりと膝の上に白い雪の欠片が落ち、やがて溶けて透明な水となる。
驚いて辺りを見渡せば、庵を囲む庭はすっかり白い雪で覆われていた。方々に伸びた木の枝に葉は一枚も無く、綿のように雪が乗っている。池の上にも氷が張って薄く雪が積もっていた。
夏の青々とした光景が、一変して雪景色だ。なのに隣の女性は驚いた様子もなく、「冷えるなぁ」とのんびり袂に腕を仕舞い込んだだけだった。
……ここはどこで、彼女はだれなのだろう。
今さらながら疑問が浮かんだのは、何となく、これがただの夢ではないような気がしたからだ。
犬神を持ち、犬神が見えない女性。それにさっき、目をくれてやったと言っていた。
「あなたは……」
問いかけようとすれば、みし、と頭上で軋む音がする。すると女性は顔を上げて、眉をひそめて言い放った。
「こら、屋根の上で遊ぶなと言っているだろう。また穴が開いたらどうするんだ、“ゆきお”」
「……ゆきお?」
馴染みのある名前が聞こえて目を瞠る私に、女性は首を傾げる。
「どうした?」
「あの、ゆきおって……」
「犬神の名だが」
「……私の犬神の名前も、雪尾というんです。空から降る『雪』に、しっぽの『尾』で、『雪尾』って」
恐る恐る答えると、女性はぱちりと目を瞬かせた後、ふはっと吹き出した。ころころと笑う様子は、何とも無邪気なものだった。
「なんだ、名前まで似てるのか。そうか、そうか」
ひとしきり笑ってから、女性は犬神の名を教えてくれた。『雪』の『王』で『雪王』と言うそうで、彼女はにやりと口の端を上げる。
「大仰な名前を付けてしまったがな。しかし似た名前であれば、其方の犬神のようにもっと素直で可愛げがある方が……こら、雪王、やめぬか。屋根が破れる」
抗議するように音を立てる梁から砂や埃が落ちてきて、女性は顔を顰めた。
まったく可愛くない奴めと彼女が言えば、今度は庇からどさりと雪が一塊落ちてくる。濁酒やらぬぞと彼女が言えば、みしみしぱきりと上から音がした。
声と音、時々雪の応酬を繰り広げる女性と犬神に、私の口元は緩む。例え姿が見えなくとも、ふたりの仲睦まじい様は伝わってきて、そして同時に気づく。
ここは優しくて居心地がいいけれども、私がいたい場所ではない。
私には帰る場所が――会いたい者が、在る。
一つ深呼吸して軽く頬を押さえた後、私は縁側から降りた。足が冷たい雪の中に埋まる。
「……私、そろそろ帰ります」
声をかけると、女性はきょとんとした顔をこちらに向け、あれほど軋んでいた屋根の音もぴたりと止んだ。女性は私を見つめた後、目を細めて静かに微笑む。
「そうだな、早く帰ってやれ」
「はい。……ありがとうございます」
「礼は言わんでいい」
女性は軽く肩を竦めて苦笑したが、私は姿勢を正して深く礼をした。見上げた屋根の上、姿の見えない犬神にも礼をしてから、身を翻す。
さくさくと雪を踏む音に幼い頃を思い出しながら、私は白い庭を一歩一歩、拙い足取りで進んだ。
*****
この庭に外からの客が来るのは久しぶりだった。とはいえ、ここには時間の流れが無いため、久しぶりと言っていいのか。
とうに見えなくなった客の姿を見送った後、ぽつりと呟く。
「ずいぶんと可愛いらしい客だったな」
ともすれば独り言になる声に応えるように屋根が軋んだ。本当に穴が開きそうだ。まあ、そうなったら、度々ここに出入りする修験者の男に修繕を任せればよいかと思い直す。
目の前にとさりと何かが落ちてきて、白い雪を散らした。姿は見えずとも雪に付いた大きな獣の足跡を見れば、すぐそこに雪王がいることはわかる。
どこか不機嫌そうなのは、可愛い可愛いと客の事ばかり褒めるからだろうか。存外焼きもち焼きなのだな、と可笑しくなりながら、目を眇める。
細めた目で見つめる先には、庭の端まで続く足跡がある。
雪の上に残った足跡は、雪王のものよりもはるかに小さい――犬の足跡だ。
……あの娘は、気付いていたであろうか。
己の姿が、白い小さな犬神の姿と重なっていたことに。
「稀有なものよ」
犬神と主。魂を分けあって生まれる者達。この世に生を受けて、身体と魂は別々になったとしても、深く繋がりあっている。
だが、あの娘と犬神のように、魂の境が曖昧になり、互いの輪郭が重なるほどに寄り添って生きている者もそうはいないだろう。
ただの偶然か、それとも兆候か。
そもそもが、山犬と人間、別々の命だったのだ。それに力を与えて、繋がりを作ったのは自分。
しかし、どんな力も永久には続かない。やがて衰退し、魂は分かれることなく、犬神は生まれなくなる。
そうしていつか、犬神と主ではなく、ただの山犬と人間に戻る。
その日は、そう遠くないかもしれない。この庭から、解放される日も――
「……」
落胆とも安堵ともつかぬ息を吐き出せば、今度は隣の床板がぎっと鳴った。見下ろしても、そこには少しばかりの雪の欠片と丸い水滴が見えるだけ。
けれどもきっと、澄ました顔の白い山犬がゆったりと座っているのだろう。
「……側に、いてくれるか」
自分でもらしくない小さな声は口の中で消えたが、相手には届いていると分かる。床板は鳴らない――それが答えだ。
ふふっと笑った矢先、庭の端で「文緒殿ー、雪王殿ー」とのんびりとした声が響いた。どうやら、修験者の男が来たようだ。
「高階か、ちょうどいいところに来たな」
さっそく屋根の修繕を頼むかと立ち上がる隣で、我関せずと言わんばかりに小さな欠伸の音が聞こえた気がした。




