68 白い夢 中編
隣を示すように縁側の板を叩いた女性は、それ以上促すことはしなかった。胡坐をかいていた膝を崩し、立てた膝に頬杖をつく。
寛いで庭を眺める女性に、私は躊躇いながら近づいて、少し離れた位置に腰掛けた。見知らぬ女性の正体を訝しくは思ったが、怖い感じはしないし、姉に似た雰囲気はどこか懐かしかった。
それに、これはきっと夢の続きなのだろう。
知らない場所、知らない人。緑と光に満ちた穏やかな夢は、暗い闇ばかりの夢よりずっといい。女性の言うように、目が覚めるまで少し休みたい。
それでも、焦りが胸を占める。いつも側にいる存在がいないことが拍車をかける。無意識に目線を足元へと落とす私の耳に、涼しげな響きが届いた。
「見てみろ」
声をかけてきた彼女が右手をすっと掲げる。
細い人差し指が示す方を見れば、先ほども見た小さな池がある。この位置から見えやすいようにと、池の一角だけ草や木が綺麗に刈られていたようだ。所々苔の生えた地面の向こうに、波一つ無い穏やかな水面が見える。
不意に水が跳ねて、波紋が広がった。一つ、二つ、離れた位置でまた一つ。幾重にも広がり重なる波紋が、水面に反射する光を揺らす。
アメンボかオタマジャクシでもいるのだろうかとぼんやり考えていれば、彼女が口を開く。
「あそこに、犬がいるんだ」
その言葉に、私は目を瞠った。
池どころか見渡した庭の何処にも、犬の姿も気配もない。彼女の言う『犬』は『犬神』であると、直感で分かった。この女性は、犬神筋に関わりのある人なのか。
腕を下ろした彼女は薄い唇の端を少し上げて、私を横目で見てきた。
「其方には見えるか?」
「……いいえ」
犬神を見ることができない能力無し。親戚達に影で言われていた言葉を思い出して目を逸らす私に、しかし彼女は意外なことを告げる。
「実はな、私にも見えん」
「え?」
思わず上げた目に映る彼女の横顔は、先ほどと変わりない。薄く微笑んだまま、目線を戻して池の方を見つめている。その眼差しは、波が消えた水面のように穏やかだった。
声を掛けられずにいれば、女性は淡々と言葉を紡いだ。
「昔、あいつに“目”をくれてやった」
目。
犬神を見る力。
「以来、見えなくなってな。そうしたら、ああやって主張してくるんだ」
女性の声に応えるように、ぱちゃんと水が跳ねて光を散らす。
「春には満開の桜を散らすわ、秋には集めた落ち葉を散らすわ。冬なんぞ、庇に積もった雪を落としてきおった。あやうく埋まりかけたこともあったぞ」
やれ困ったものだと渋面を作って、彼女は溜息を付く。
しかし、苦情を並べる声も眇める眼差しも愛情が滲み出て、温かくて優しかった。そして同時に、池に落ちる木々の影のように暗い蔭りを潜ませている。
「それでも……そこにいると分かっているのに見えぬのは、少々、淋しいものだな」
「……」
彼女の独り言のような呟きに、私は言葉を失った。代わりに溢れてきた涙が、頬を伝う。
悲しかったわけじゃない。犬神が見えないことの淋しさを――自分と同じ『淋しさ』を抱く人に初めて出会ったことに、強張っていた心が訳もなく緩んだのだ。
「……また泣くのか」
呆れたような彼女の声には、責める響きは無い。ただ、見えない犬神を見守るときと同じような温かさがある。
溢れる涙を拭い、私は胸に詰まっていた言葉を吐き出す。
「……私、しっぽだけしか、見えなくて……犬神が……“目”を、たべたからだって……」
「そうか…」
「見えなくなった理由なんて、本当は、知りたくなかった。知ったら、きっと……」
見下ろした視界がぼやけて、瞬きをした目からぱたたと新たな雫が膝の上に落ちた。
「その相手を責めてしまうかもって……嫌いになってしまうかもって……」
「……では、犬神のことを責めるか?嫌いになったか?」
静かな問いかけに、私は首を横に振る。
「犬神を責めるなんて、できない。嫌いになんて、なれない」
だって、好きなの。
あのこのことが大好きで、ずっと一緒にいたくて。
「あのこはずっと、私の側にいてくれたんです。きっと……とても、つらかったはずなのに」
あのこは、どんな思いだったのだろう。どんな気持ちで、私の側にいてくれたのだろう。
意識を失う直前に見た白いしっぽは、震えていた。まるで、恐れて、怯えているように。
思い出すだけで、胸の奥が引き絞られるように痛んだ。今のあのこと向き合うことが、気持ちを知ることが怖かった。
「これから、どうしたら……」
顔を伏せた私を女性はしばらく見つめた後、ふっと苦笑を零した。
「別に理由を知ったからと言って、無理に相手を責めずとも、嫌いにならずともよいだろう」
おかしな娘だ、と女性は微笑む。
「好きなら好きなままでいい、側にいたいならいればいい。……ちゃんと伝えてやれ、ちゃんと知ってやれ。其方の犬神だ。恐れずに向き合ってやれ」
「……」
女性の手が伸ばされて、私の頭を撫でてくる。
安堵感に再び泣く私に「泣き虫だな」と言いながらも、その手はわしゃわしゃと犬の頭を撫でるようにして、離れることはなかった。




