67 白い夢 前編
誰かが泣く声が、ずっと聞こえている。
ああ、泣かないで。
側にいるよ。淋しくないよ。
だから、もう――
無意識に伸ばした手には、何も触れない。柔らかな感触も温かさも、掌の中にはない。
目を開いて身を起こせば、いつかの夢で見たような暗くて冷たい空間に、たった一人でいた。見回した視界に、白いしっぽは見つからない。
「……っ」
いつものように名を呼ぼうとして、声が出なかった。中途半端に開いた唇に、つと温い滴が伝って落ちる。塩の味をじわりと滲ませるそれは、私の目から溢れたものだ。
胸からせり上がってきた息が詰まって、喉が震える。音の無い嗚咽が、誰もいない空間を揺らす。
どうして。どうして。
溢れ出る涙を押さえつけるように、目を両手で覆う。
どうしてこの目は、犬神を映さないの。
どうして私は、犬神を見ることができないの。
からからと、音が鳴る。けらけらと、誰かが嗤う。
『貴女が犬神を見ることができない理由、知っていますか?』
知らない。私は、何も知らなかった。
誰も教えてくれなくて、誰に聞くこともできなかった。
いや、聞こうとしなかった。知ろうとしなかった。
知ることが、怖かったのだ。
理由なんて知ったら、きっと、私は。
『犬神が、あなたの“目”を喰ったせいですよ』
それなのに、無機質な声が、無慈悲に告げてくる。
『貴女が見えないのは、犬神のせいですよ』
犬神の、せい。
犬神が、私の力を喰べたせい。
私の、犬神が。
雪尾が、私の目を――
「やめて…っ!」
張り上げたはずの声は涙で掠れ、みっともなく震えていた。
それをからからと音を立てて嗤われて、耳鳴りが激しくなる。ざわざわと不安を掻きたてる羽音に包まれて、目と耳を固く閉ざそうとしたときだった。
「――五月蝿い。去ね」
涼やかな声が、喧噪のなかで貫くように響いた。
一拍の間をおいて、ざあっと潮騒にも葉音にも似た音が立つ。それと共に、黒いものが風で巻き上げられる木の葉のように宙を舞った。
黒い羽虫のようなものは、やがて青白い光を纏った小さな蝶へと変わって、視界を埋め尽くす。雪か星か、光が空に向かって降る幻想的な光景は束の間で、気付けば周囲の景色は見覚えのあるものへと変わっていた。
生い茂る緑に、苔むした地面や木の根。木々の間から見えるのは、小さな池だ。日差しを反射して光る水面は澄んでいて、時折、小さく水が跳ねて波紋が広がる。
その配置から、実家の庭だとすぐに気づいたが、どうも少し様子が違うようだ。
庭の周囲に巡らされている漆喰の壁はおろか垣根もなく、緑が続いている。各所に設置された石灯篭や鹿威しも見当たらない。気の向くままに伸びた枝葉や雑草からは、庭の手入れが一切されていないように見えた。
ここはどこだろうと疑問を抱く前に、背後から声がかかる。
「やれ、また来たのか。早う帰り」
聞き覚えの無い女性の声に、急いで後ろを振り向く。
まず目に入ったのは、実家とは全く違う建屋だ。木で造られた建屋はさほど大きくなく、屋敷というより庵と呼んだ方がいいだろう。
苔や草が生して朽ちかけた屋根の下には縁側があり、そこに一人の女性が胡坐をかいている。
歳は自分より上だろうか。白い面に、凛とした切れ長の目がいかにも涼し気だ。長い黒髪を後ろで一つに結わえた彼女は、随分と古めかしい格好をしていた。白い小袖に藍色の袴を纏い、上に羽織っているのは淡い浅葱色の…水干だろうか。
平安時代や鎌倉時代を思わせる着物を纏う彼女を、私はしばらくの間呆けて見つめた。すると、女性はふっと困ったように笑う。
「何だ、また泣いていたのか」
言われて、私ははっと自分の顔に手をやる。さっきまで自分が泣いていたことを、指摘されて気づいた。だが、なぜ泣いていたのか、自分でも戸惑ってしまう。考えが纏まらなくて、泣いていた理由を思い出そうとすれば胸が苦しくなり、気付けば再び目に厚い水の膜が張った。
女性は一つ息を付くと、乾いた木の床板を叩く。
「あまり長居するな。あれが心配する……が、少し休んでいくか」
何もない襤褸屋だが、と女性が目を細めて笑う様は、少しだけ姉の奈緒に似ている気がした。




