表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/98

67 白い夢 前編


 誰かが泣く声が、ずっと聞こえている。


 ああ、泣かないで。

 側にいるよ。淋しくないよ。


 だから、もう――




 無意識に伸ばした手には、何も触れない。柔らかな感触も温かさも、掌の中にはない。

 目を開いて身を起こせば、いつかの夢で見たような暗くて冷たい空間に、たった一人でいた。見回した視界に、白いしっぽは見つからない。


「……っ」


 いつものように名を呼ぼうとして、声が出なかった。中途半端に開いた唇に、つと温い滴が伝って落ちる。塩の味をじわりと滲ませるそれは、私の目から溢れたものだ。

 胸からせり上がってきた息が詰まって、喉が震える。音の無い嗚咽が、誰もいない空間を揺らす。

 

 どうして。どうして。


 溢れ出る涙を押さえつけるように、目を両手で覆う。


 どうしてこの目は、犬神を映さないの。

 どうして私は、犬神を見ることができないの。


 からからと、音が鳴る。けらけらと、誰かが嗤う。


『貴女が犬神を見ることができない理由、知っていますか?』


 知らない。私は、何も知らなかった。

 誰も教えてくれなくて、誰に聞くこともできなかった。

 いや、聞こうとしなかった。知ろうとしなかった。

 知ることが、怖かったのだ。

 理由なんて知ったら、きっと、私は。


『犬神が、あなたの“ちから”を喰ったせいですよ』


 それなのに、無機質な声が、無慈悲に告げてくる。


『貴女が見えないのは、犬神のせいですよ』


 犬神の、せい。

 犬神が、私の力を喰べたせい。


 私の、犬神が。


 雪尾が、私の目を――


「やめて…っ!」


 張り上げたはずの声は涙で掠れ、みっともなく震えていた。

 それをからからと音を立てて嗤われて、耳鳴りが激しくなる。ざわざわと不安を掻きたてる羽音に包まれて、目と耳を固く閉ざそうとしたときだった。


「――五月蝿うるさい。ね」


 涼やかな声が、喧噪のなかで貫くように響いた。

 一拍の間をおいて、ざあっと潮騒にも葉音にも似た音が立つ。それと共に、黒いものが風で巻き上げられる木の葉のように宙を舞った。

 黒い羽虫のようなものは、やがて青白い光を纏った小さな蝶へと変わって、視界を埋め尽くす。雪か星か、光が空に向かって降る幻想的な光景は束の間で、気付けば周囲の景色は見覚えのあるものへと変わっていた。

 生い茂る緑に、苔むした地面や木の根。木々の間から見えるのは、小さな池だ。日差しを反射して光る水面は澄んでいて、時折、小さく水が跳ねて波紋が広がる。

 その配置から、実家の庭だとすぐに気づいたが、どうも少し様子が違うようだ。

 庭の周囲に巡らされている漆喰の壁はおろか垣根もなく、緑が続いている。各所に設置された石灯篭や鹿威ししおどしも見当たらない。気の向くままに伸びた枝葉や雑草からは、庭の手入れが一切されていないように見えた。

 ここはどこだろうと疑問を抱く前に、背後から声がかかる。


「やれ、また来たのか。はよう帰り」


 聞き覚えの無い女性の声に、急いで後ろを振り向く。

 まず目に入ったのは、実家とは全く違う建屋だ。木で造られた建屋はさほど大きくなく、屋敷というよりいおりと呼んだ方がいいだろう。

 苔や草が生して朽ちかけた屋根の下には縁側があり、そこに一人の女性が胡坐をかいている。

 歳は自分より上だろうか。白いおもてに、凛とした切れ長の目がいかにも涼し気だ。長い黒髪を後ろで一つに結わえた彼女は、随分と古めかしい格好をしていた。白い小袖に藍色の袴を纏い、上に羽織っているのは淡い浅葱色の…水干すいかんだろうか。

 平安時代や鎌倉時代を思わせる着物を纏う彼女を、私はしばらくの間呆けて見つめた。すると、女性はふっと困ったように笑う。


「何だ、また泣いていたのか」


 言われて、私ははっと自分の顔に手をやる。さっきまで自分が泣いていたことを、指摘されて気づいた。だが、なぜ泣いていたのか、自分でも戸惑ってしまう。考えが纏まらなくて、泣いていた理由を思い出そうとすれば胸が苦しくなり、気付けば再び目に厚い水の膜が張った。

 女性は一つ息を付くと、乾いた木の床板を叩く。


「あまり長居するな。あれが心配する……が、少し休んでいくか」


 何もない襤褸屋ぼろやだが、と女性が目を細めて笑う様は、少しだけ姉の奈緒に似ている気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ