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閑話 白い犬と見える者と犬神使い


 すでに太陽は沈み、薄明を残した空には一番星が輝いている。藍色に染まった中天を見上げる視界に、ふっと白い影が差した。大きな白い犬が、青い目を眇めて覗き込んでくる。


『まったく……無茶をしおって』


 苦い声で叱りながらも、白姫さんの目は柔らかな光を灯していた。すみません、と苦笑しながら起き上がろうとして、肩に走った痛みに呻く。痛いというよりは重くて、筋肉が強張ったように動かしづらい。

 肩の様子を見ようと横を向いたとき、隣に横たわった白瀬さんに気づく。手を伸ばせば届く距離にいる彼女の目は、いまだ閉ざされていた。動かぬ白い瞼に、ひやりと肝が冷える。


「っ白瀬さん!」


 慌てて起き上がろうとした俺を、白姫さんが鼻先で押して制した。


『安心おし。気を失うておるだけよ』


 よく見れば白瀬さんの胸はかすかに上下しており、静かな息の音もする。見た限りでは外傷もないようだ。

 とりあえず無事でよかったと胸を撫で下ろしていれば、白姫さんが彼女の顔に鼻を寄せてふんふんと嗅いだ後、口を開いた。白瀬さんの頭に咬みつく姿にぎょっとすれば、鋭い牙がずるりと黒いモノを引き摺り出す。

 翅の付いた蜘蛛のようなそれを噛み砕き、ぺっと黒い靄を吐き出した白姫さんは鼻に皺を寄せる。


『やはりしゅが入り込んでおったわ』

「大丈夫なんですか?」

『取り除いたし、術を使う者ももうおらん。じきに目が覚めるだろう……が』


 白姫さんの目線は、俺の右手に向かう。ぽうぽうと青白く弱い光を放つ球体は、白瀬さんから取り出された『目』だ。


「……これ、どうやったら戻せるんでしょうか」


 雪尾さんに返すとは言ったものの、どう白瀬さんの中に戻せばいいのか分からない。自分より詳しそうな白姫さんも、『我も初めて見る』と答えて首を捻る。

 とりあえず、白瀬さんの側へと移動しようと、肘をついて少し身を起こせば、シャツの胸の辺りを引っ張られた。

 胸の上には、短い手足と爪でシャツにしがみつく白い子犬の姿があった。身体の震えは治まっており、目を閉じてくったりとしている。


「雪尾さん……」

『力の均衡が崩れ、負担が来たのであろう。相変わらず未熟者よ』

「……そうですか」

 

 完全に身を起こせば、前脚の爪を引っかけた状態で子犬がずるずると胸から腹へと滑り落ちそうになる。左手で支えるが、子犬のサイズとはいえ小型犬よりも大きいくらいなので、なかなか重い。だが、その重さと微かな温もりが、雪尾さんがここにいることを伝えてくれる。

 雪尾さんをしっかりと胸に抱えたまま、白瀬さんの側に這いずるように近づく。傍らに落ちていた眼鏡に気づき、壊れぬようにと拾い上げて、彼女の身体の上に『目』と共に乗せた。

 白瀬さんは、まだ目覚めそうにない。

 これからどうするか。まずは白瀬さんのお兄さんに連絡して、いや、先に救急車を呼ぶべきか――。

 考えていれば、パトカーのサイレンの音が遠くから聞こえてくる。音は次第に大きくなり、どこか近くで止まったようで、ふっと音が途切れた。

 白姫さんがひくりと髭を震わせて、顔を正門の方へと向ける。


『……来おったわ』

「何がです?」


 問いかけはすぐに答えとなって現れる。

 枯れた芝生がざあっと風で振れる中、近づいてくる複数の気配と足音があった。咄嗟に、胸に抱えた雪尾さんを抱きしめて、白瀬さんを背に庇う。だが、傍らに佇む白姫さんは悠然と構えているし、ひときわ勢いよく近づく気配も悪い感じはしない。

 間もなく地を駆けて向かってきたのは、一匹の白い犬だ。しなやかな体躯は美しく、中型犬くらいの大きさだが、姿は白姫さんとよく似通っている。


姉様あねさま!』


 若い女性の声が響き、軽やかに白姫さんの前で足を止める。


『久しいの、吹雪ふぶき

『はい、お久しゅうございます。ご無事で何よりです』


 丁寧で落ち着いた口ぶりながら、白いしっぽが嬉しそうに揺れる。その姿や纏う気配から、彼女もまた白瀬の犬神だろうと知れた。

 吹雪と呼ばれた犬神は、俺の方を見て驚いたように青い目を瞬かせる。


『……雪尾、ですか?それに、その男子おのこはもしや……』

「ちょっと吹雪。早いよ、君」

 

 吹雪の言葉を遮ったのは、若い男――こちらは頭ではなく耳に響く人間の声だった。

 犬神に気を取られていた間に、接近を許していたようだ。一瞬緊張が走るが、若い男は深々と白姫に向かって頭を下げる。


「これはこれは、白姫様。ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」

大神おおがみの次男坊か。相変わらず口の達者なことよ』

「恐れ入ります」

『……』


 白姫さんは顔を顰めて、褒めておらぬわ、と嫌そうに吐き捨てる。

 若い男の方は気に留めた様子も無く、顔を上げてにこりと笑みを浮かべた。淡い灰色のロングコートを着た彼は綺麗な顔立ちをしており、垂れ目に泣き黒子ぼくろが印象的だ。

 男は柔らかな表情で、しかし細められた目は素早く俺を捉えた。


「やあ、初めまして。君が高階恵君だね」

「……」

「ああ、警戒しなくても大丈夫。兄さん……達央たつひささんから君達を助けるように頼まれているんだ。僕の方が近い場所にいたから、先に着いたってわけさ」

「兄さんって……白瀬さんには、お兄さんは一人のはずじゃ……」

「正確には義理の兄だよ。…ああ、自己紹介が遅れたね。僕は大神夏貴おおがみ なつき大神奈緒おおがみ なおの夫です」


 大神奈緒という聞き覚えのある名前に、俺ははっとする。奈緒さんは、白瀬さんのお姉さんだ。そして大神は、犬神筋を統べる家だと聞いている。

 思わぬ人物の登場に緊張する俺に、男はじろじろと不躾に視線を注いでくる。


「いやー……それにしても君、あんまり似てないねぇ」

「……は?」

「こっちの話。気にしないで」


 男は砕けた口調になって、軽い足取りで近づいてくる。だが、俺の胸元を見た男は、あれ、と首を傾げる。


「……雪尾君?しばらく見ない間にずいぶん小さくなったね。へえ……」


 考え込むように唇に指先を当てていた男は、やがて手を伸べてきた。


「ねえ、僕にも貸して」

「え……?」

「雪尾君。僕も抱っこしてみたいんだ。小さくて可愛いし」


 貸して、と男は邪気の無さそうな笑みを見せる。だが、腕の中で眠っている雪尾さんを、おいそれと差し出すわけにもいかない。それに雪尾さんは俺の犬神じゃない。


「……すみません、駄目です」


 ぎゅっと庇うように抱きかかえて、白瀬さんの方へと身を寄せる俺に、男はつまらなそうに唇を尖らせた。


「えー、少しくらい……」


 いいじゃない、と続けようとした男だったが、俺の前に白姫さんと吹雪さんが盾のように立ち塞がったことで言葉を途切れさせた。


『雪尾に近づくでないわ、この食わせ者』

『雪尾と高階様に手を出すなと、達央様からのお言いつけでございます。無理強いなさるようであれば、奈緒様に言いつけますよ』


 ふたりの女傑から睨まれて、男はしばし目を瞠った後、盛大に溜息を付いた。ちっと小さな舌打ちが聞こえたような気がする。


「……あーもう、ほんっと、白瀬の犬神は扱いづらいったら……」

『何ぞ言うたかえ?』

「何でもございませんよ、白姫様」


 青い目を冷たく光らせた白姫さんに、にっこりと笑みを貼り付けて返した男は、さてと話を切り替える。


「あと小一時間もすれば義兄にいさんも、こちらに着くだろう。でも、まずは移動しようか。彼女も君も、この寒空の下で風邪を引かせるわけにはいかないからね」


 仕切り出す男の背後からは、ばらばらとスーツ姿の男女が現れる。広場に散らばった人形の残骸を集める彼らを横目に、俺は担架で運ばれる白瀬さんの側に寄り添った。






その後の夏貴と吹雪


「高階翁、僕のことを恵君に話していなかったのかな。何だか全然知らない風だったけど」

『それは教えたくもないでしょう。貴方のことなど』

「……何だか最近、ますます辛辣になってないかい、吹雪」

『御自分の胸に手を当てて、日頃の行いを省みて下さいませ』

「……」

『それにしても、高階様の御令孫は良い方ですね。雪尾を貴方に渡さなかったことは、とても賢明なご判断でした』

「……吹雪、高階びいきも程々にね。さすがの僕も凹むよ?」



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