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66 白い犬と、届く声


 三月の初めの日のことだ。


 寒の戻りで、久しぶりに雪が降った日。

 図書館前の広場一面に積もった雪に、白い犬神は思いっきりはしゃいでいた。

 あの人は、雪の上を跳ね回る白いしっぽを嬉しそうに見ていた。

 犬神は遊んでと言わんばかりに、俺に飛び掛かってきた。

 柔らかくて冷たい雪の上に押し倒された俺の腹の上に、のしりと重みがかかってきて、青い目が覗き込んできた。


 何だか、むしょうに泣きたくなって。

 白い光と色が混ざって、輪郭が曖昧になって。


 あなたの見る世界は、こんなにも頼りないものだと知って。

 あなたが見てほしい世界は、こんなにも儚いものだと知って。


 愛おしくて、仕方なかった。




*****




 雪の日のことを思い出したのは、似たような状況にあるからだろうか。

 だが、今は雪も無くて、背中には固い地面の感触がある。見上げる先にある犬神の顔は、あのときのように無邪気に首を傾げていたものと違う。

 ぐうう、と低く唸った犬神は牙を剥き、俺の両肩を押さえる前足に重みがかかった。みしりと骨が鳴り、鈍い痛みが肩に走る。押しつぶされそうな圧迫感と、じりじりと視界を覆う黒い靄に、恐怖を感じて息が詰まった。


「っぐ…う……」

『止めぬか、雪尾!』


 白姫さんの鋭い声が、頭の中で響く。

 だが、それ以上に響く音があった。始めは、誰かが遠い場所で泣いているような、小さな泣き声のようにも聞こえたが、やがてそれが言葉を作っていく。



 ……して。


 か、え……て。

 

 あ……こ、……、め。



 拙い響きの音は、ぼやけていて弱々しいのに、直接胸の中を掻き回し、感情を揺さぶるように響く。

 まるで『声』だ。いや、声よりもずっと小さいくせに、強くて、剥き出しの心がそのままぶつかってくるようだった。幼い子供が泣きじゃくる声に近い。

 響く泣き声に意識が引きずられそうになる中で、一つ一つ、形になっていく音に、ようやく合点がいく。

 見開いた目に、白姫さんが再びこちらに向かって跳ぼうと体勢を低くしているのが見えて、俺は咄嗟に声をあげた。


「白姫さん、待って!」

『高階?』

「待って下さい。……俺は、大丈夫です」


 だって、犬神は言った。


 震える声で。泣きそうな声で。


 あの子の目を返して、と。


 そう、聞こえた。


 自分の右手を見れば、青白く光る球体が握られている。軽くて、柔らかな光の輪郭のそれは、白瀬さんの『目』だ。


 犬神は、ただ白瀬さんの目を取り戻そうとして、飛び掛かってきただけだ。

 思い返せば、犬神は白瀬さんの目を奪った人形を壊しただけで、後は白瀬さんの側から離れようとせずに、こちらを睨んで威嚇していた。

 威嚇していたのも、俺達に危害を加えようとしたからじゃない。白瀬さんを守るため、誰も近づけさせまいと、怯える心を奮い立たせていただけだ。


 ……雪尾さんだ。


 黒い靄をまとっていても。

 獰猛に牙を剥き出しにしていても。

 青い目に敵意があっても。


 この犬神は、雪尾さんなんだ。


 それが解って、ほっと息が零れる。

 詰めていた息を吐き出せば恐怖が薄れ、緊張を残しながらも肩の力が抜けた。ずきりと肩は痛んだが、顰めていた顔を緩めて苦笑する。自分は、何を怖がっていたのだろう。


「……重いです、雪尾さん」


 見上げて、いつかのように声を掛ければ、三角の耳の先がぴくりと震えた。

 

「大丈夫ですよ、雪尾さん。取ったりしません」


 青い目が揺れる。唸り声が小さくなる。


「これは、白瀬さんのものだから。白瀬さんと雪尾さんの、大切なものだから。ちゃんと、返します」


 逆立っていた白い毛が、ふうっと揺れて治まっていく。肩にかかっていた重みが軽くなって、食い込んでいた鋭い爪の感触が無くなった。

 雪尾さんの気配が徐々に鎮まっていくのがわかる。離れた場所で、いつでも飛び掛かれるようにと構えていた白姫さんが、訝しげながらも体勢を戻した。

 静けさがゆっくりと戻ってくる中、それでも響く音がある。


 泣き声が、やまない。


「雪尾さん……?」



 め。

 あのこの、め。


 ぼくが、たべた。

 めを、たべた。


 ぼくの、せい。

 いえない、いえなかった。


 だから、だめ。

 しられた、だめ。


 きらわれる。


 いや。


 さみしい。


 こわい。



 言葉の欠片が、思いの断片が、はらはらと振って落ちてくる。



 おねがい。


 きらいに、ならないで。


 ごめんなさい。


 さみしいのは、やだ。


 ごめんなさい。


 おねがい。


 おねがい。


 きみの、そばに。


 そばに、いさせて――



 とても小さい声。

 うるさいくらい響く思いは、重くて、痛くて、苦しくて。

 胸が、押し潰されそうだ。

 ごめんなさい、と繰り返される小さな声が、響き続ける。

 声が、やまない。


「……雪尾さん」


 手を伸ばしかけて、躊躇う。

 

 本当に撫でてほしい手は、俺の手じゃない。抱きしめてほしいのは、俺の腕じゃない。

 雪尾さんには、大好きで、大切で、きっと一番に撫でてもらって、抱きしめてほしい人がいる。


 だけど――


 ぐっと奥歯を噛み締めて、左手を伸ばした。

 震える指先で、柔らかく冷たい、白い毛に覆われた頬に触れる。掌に、微かな温もりと震えが伝わってくる。


「ずっと、がまんしていたんですね」


 淋しがり屋で、怖がりで、甘えん坊で、食いしん坊で。

 かっこよくて、かわいくて、強くて、弱い犬神は。


 言えない秘密と罪の意識を抱えながら。

 あの人のそばにいるために。


「……よく、がんばりましたね」


 そっと頬を撫でれば、泣き声が一瞬途切れた。

 瞬き揺らぐ青い目を見上げて、微笑みかける。


「たくさん、たくさん、がんばって。雪尾さんは、えらいです」


 ぶわりと白いしっぽが膨れて、震える。

 見下ろしてくる青い目から、ほろりと丸い光が落ちる。

 それは、冬の夜空に輝くシリウスのように輝き、手に触れれば雪のように解けて無くなる。冷たさと温かさを伝えながら、掌の中で消えていった。


「雪尾さん」


 名を呼べば、はらはらと雪が降るように光が落ちる。


 泣かないで、と慰めたくなる。

 泣いてもいいよ、と促したくなる。


 相反する気持ちに、結局何も言えないまま、ただ雪尾さんの名前を呼んだ。

 光は跳ねて、弾けて、黒い靄と共に消えていく。

 綺麗だった。とても綺麗で、泣きたくなった。


 ふいに、肩にかかっていた重みがなくなる。いや、体全体にかかっていた圧迫感が完全に消えた。ただ、胸の上だけが温かい。

 不思議に思って胸の上を見やれば、そこには小さな白い犬がいた。

 やや丸みを帯びた三角の耳、尖った小さな鼻先。手足は短くて、白いしっぽも短い。子どもの狼のような白い犬が、身体を震わせている。


「……雪尾さん?」


 名を呼べば、小さな白いしっぽがぴっと跳ねた。


 小さな、幼い雪尾さん。

 きっと、これが本当の姿なのだろう。


 雪尾さんは俺の胸に顔を伏せて、しがみついてくる。小さな前足で必死になってシャツを握ってきて、飛び出た爪が当たって痛かったけれども。


 泣く声は、まだ止まないから。

 小さな身体は、まだ震えているから。


 俺は地面に仰向けになったまま、右手で白瀬さんの『目』を、左手で雪尾さんの小さな背を抱きしめた。


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