07 白い狼と眼鏡の彼女(前編)
それを初めて見たのは、高校三年の冬の終わりだった。
大学入試で、希望の公立大学に二次試験を受けに来ていたときだ。
試験は無事に終え、手応えも十分あった。おそらく大丈夫だろうと、やり遂げた達成感とわずかな緊張感を残して、ほっと息をついたものだ。
そこまではよかったのだが――
「……」
力の入らぬ足を引き摺って外に出て、目に付いたベンチに腰を下ろした。膝の上に肘をついて顔を伏せて、重い息を零す。
体調は最悪だった。
風邪や熱のせいではない。そもそも受験に向けて体調は万全に整えていた。今日だって念のためにマスクをつけて予防に徹している。
吐き気と目眩、激しい頭痛に襲われているのは、自らの体質のせいだ。
伏せていた顔を上げれば、視界が黒く陰る。ずしりと重かった肩がさらに重くなった気がした。
目の前でゆらりと蠢いた影の中で、人の顔が浮き上がっては、ぞっとするような嫌な笑い方をして消えていく。
「くそ…」
見事に憑かれたなと、俺は吐き気を紛らわすように諦めの息を吐いた。
**********
駅で見かける生気のないサラリーマンの男性。
歩道を俯きがちに歩く老婆。
学校の体育館の隅で体育座りをする少年。
彼らが生きている人間でないと気づいたのは、小学生になってしばらく経ってからのことだ。同時に、自分の見ているものが他の人と少し違うということにも気づいた。
『あれはだれ?あそこにだれかいるよ』
そう言って指させば。
『だれもいないよ。なにをいってるの?』
そう言って笑われる。
笑われたり馬鹿にされたりするだけならまだよい。
気味悪がられ、遠ざけられ、否定されれば、違いはより浮き彫りになった。
なぜ他の人には見えないのだろう。
なぜ自分には見えるのだろう。
生じては深まるずれに、幼い自分は困惑し、散々泣いた。
学校に行かずに家に閉じこもり、目に映る恐ろしいものから逃げて、周囲の人達から離れた。
そのまま引きこもりにならなかったのは、ひとえに家族のおかげだ。
うちの家族は、基本的に明るかった。
変なものが見える、と泣きながら訴えたとき、父は「お前霊感があるのか」とあっさり受け入れ、母は「まあまあ、大変ね」とのんびり同情し、弟からは「すっげー兄ちゃんかっこいい!」となぜか感心された。今でも不思議だ。たぶんどこかずれているのだ、うちの家族は。
まあ、祖父の存在があったからというのが一番大きな理由だろう。
祖父の家系は霊感がある者を多く輩出し、古くは犬神を使っていた者もいたらしい。
すでに家自体は無くなっていたが、祖父自身も霊感が強くそちら方面に詳しかった。時折、祖父の元へ霊関係の相談に来る者もいた程だ。俺の霊感は、祖父譲りらしい。
祖父は俺に、身を守るための方法を一通り教えてくれた。
基本は三つ。
目を合わすな、話しかけられても無視しろ、絶対に自分から声を掛けるな――。
要は、『一切関わるな』ということだ。単純だが、一番効果的な方法だ。
しかし、自分から関わらなくても、相手から否応なしに関わってくるときもある。そんな時のために、お守りと塩を常に身に付けていた。
お守りに関しては、家族が出掛けた折に毎回お土産として買ってくるため、大量に家に常備してある。「これは効くかしら?」「えー、こっちの方がいんじゃね?」と、母と弟が特に熱心だ。安産祈願のお守りを買ってきたときは、何考えてんだと頬を引き攣らせたものだが。
塩の方は、祖父が清めた塩を白い和紙に包んで持ち歩いている。
これで大抵の霊は離れてくれるのだが、いかんせん、強い霊に出くわしたときにはどうにもならないことがある。
それが、今だった。
**********
人が集まる場所には、霊も集まる。
霊だけではない。人の思いも集まる。
受験を受ける学生達のプレッシャーや願望、彼らに寄せられる期待。それぞれに詰まった強い思いを背負った学生達は、試験終了と同時にそれらを手放した。
思いに引き寄せられてきた霊達、過去に受験に失敗した者達の執着や怨念、羨望。どろどろのぐちゃぐちゃに混じり合ったものは、もはや人の形を取っていなかった。
大きな黒い塊となったモノを思わず見てしまい、影に浮き沈む目の一つと視線が合ってしまったのが運の尽きだ。
慌てて身を翻して教室から出たが、一階の玄関で追い付かれて背中に悪寒が走る。
ミツケタァアアァァ。
ニガサナイィィ。
囁き程度の声は、頭の中で怒号となって響き渡る。男とも女とも、子供とも老人ともつかぬ声の重なりに、身が竦む。
圧し掛かってくる重さと、強くなる耳鳴り。
目眩に囚われながらも何とか歩を進めて、大学の正門の近くまで辿り着いたが、すでに限界だった。
吐き気に襲われながらも、羽織ったコートのポケットを探る。指先に当たった、塩の入った和紙に少しほっとする。
これをばらまけば、多少は離れてくれるだろうか。その隙に逃げれば、何とかなるかもしれない。すぐに家に連絡して、祖父に来てもらおう。
そう考えながら塩を取り出そうとしたが、腕が重い。激しく痛む頭に、意識が飛びそうになる。
「っ…」
これは、本気でやばい。
冷や汗が額に滲んだときだ。
「―――――」
何かが、吼えた。
同時に、背中の黒い影が声にならない悲鳴を上げる。
頭の中に響き渡る声は大きく、咄嗟に目を瞑った。
固く目を閉じて堪えていれば、ふっと悲鳴が掻き消えた。一瞬だった。身体を覆っていた重みも失せ、はぁっ、と思い出したように喉を震わせる。
ぐったりと項垂れて大きく息を吐き出せば、吐き気と目眩が鈍く残っているものの、頭痛はだいぶ治まっていた。
なぜかは分からないが助かった。
広がる安堵に目を開き、ゆっくりと顔を上げる。
その途中で、固まった。
すぐ目の前に、大きな白い犬がいたからだ。
でかい犬だった。
四つ足で立っているのに、ベンチに座った俺よりも高い位置に顔がある。立てばきっと自分よりも背が高くなるだろう。
白い毛並みは輝き、白銀色といっても差し支えないほど美しく艶がある。
ぴんと立った三角の耳に凛々しい顔立ちは、犬というよりも狼のようだ。
青白い光を宿す目が、じっとこちらを見つめてくる。
普通の犬じゃないと、直感でわかった。
さっきの霊の塊よりも存在感があり、畏怖を覚える。
怖い。
だけど、惹かれる。
青い目に囚われたように見つめ返せば、白い犬は小首を傾げる。
まるで、お前見えているのか、と言うようにしばらく俺を不思議そうに見つめた後、犬はついと視線を逸らした。
長く白いしっぽがぱたりと振られて、周囲に残っていた影の小さな欠片を払っていく。
それをぼんやりと見つめていれば、近づく人影があった。
「……きお、どうしたの?」
囁く小さな声は、女性の物だ。
そして、声の主は俺に気づいたのか声を掛けてくる。
「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
心配そうな声に急いで上体を起こそうとしたが、残っていた目眩のせいで視界が揺らいだ。前のめりに倒れかけた身体を、女性が慌てて支える。柔らかで温かい指が額に触れた。
「動かないで。横になって下さい。人を呼んできますから」
そのまま俺をベンチに寝かせると、女性はマフラーを外して身体に掛けてくれた後、小走りに立ち去ってしまう。
女性の足元で犬の白いしっぽが揺れて遠ざかるのを、俺は霞がかった視界で見送った。
結局、貧血で倒れたと大学から連絡がいったらしい。
事情を察したのか、何か予感があったのか。すぐに迎えに来てくれた祖父に、一連の出来事を離した。
「そいつは、犬神かもしれんなぁ」
聞き終えた祖父は、儂も見たかったわい、とどこか懐かしむような眼差しをしたものだ。
俺も、もう一度会いたい。
そしたら、今度はちゃんとお礼を言おう。
そう決意して、ひとまずは疲れた身体を休めるために眠りに付いた。