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65 白い犬と、青い目(後編)


 はじめは、それが雪尾さんだとは思えなかった。

 よく見知っている白い犬が、鼻に皺を寄せて鋭い牙を剥き出しにし、威嚇するように低く呻る。

 こちらを警戒したまま、犬神は大きく口を開けて、今度は男の腕を噛み砕いた。青白く光る『目』を握った片腕が、地面へと落ちる。

 獰猛な狼のような姿に、近寄りたくとも怖くて足が進まない。


「雪尾さん……」


 呼びかけても、雪尾さんは反応しない。いつもならぱたぱたと揺れる白いしっぽが、警戒するように毛を逆立てて、高く掲げられていた。

 向けられる敵意に、自分でも思った以上のショックを受けていたのだろう。足元にあった男の頭部が、風も無いのに動いたことに気づかなかった。


『高階!』


 鋭い声が響いて、コートの襟を強く引かれる。

 後ろに倒れ掛かった俺の目の前を、がちんっ、と音を立てて黒いものが通り過ぎた。白姫さんが襟を咥えて引っ張ってくれなければ、喉か鼻かを噛み千切られていたかもしれない。

 黒い歯をかちかちと鳴らしたそれは、髪を乱して地面に再び落ちる。けたけた、うふふと笑い声を零すのは、男の生首だ。だが、もう人間でないのはわかっていた。

 下田代の犬神。首を噛み千切られても動く人形。

 黒い靄を発し、白い顔がどんどん黒く塗りつぶされていく中、光の無い白目で見上げてくる。


「ケガれの無いものほど、ヨゴれやすいんですよぅ。あははぁ、アノときの顔!目無しのムスメに、真実ほんとうのコトを教えてアゲタときの、アノ顔!犬神が喰った、ソイツの所為だって!……無様で、愚かで、ワラわせてくれましたよう」


 雑音混じりの耳障りな声が、嗤笑する。


「白瀬のイヌも、目無しのムスメも、哀れなものヨ。なぁんにも知らサレズに。ああ、可哀想に、かわいそうに、カワイソウ、カワイソウ!」


 けらけらと嗤いながら、繰り返される濁った言葉。

 その言葉に、気付く。白瀬さんに『犬神が可哀想だ』と吹き込んだのは、彼だということに。

 声が届けばしゅも届く、と白姫さんは言っていた。彼が白瀬さんに言葉と共に呪も植えつけていたのなら。白瀬さんの内側に入り込んだ呪は、不安を煽って増幅させて、白瀬さんの精神を弱らせた。

 そうして白瀬さんが弱ったところに付け込むだけじゃない。


 白瀬さんと雪尾さんの秘密。

 雪尾さんを見ることができない理由を、彼は話したのだ。

 傷つけて、絶望させて、二人の間を繋ぐ糸を切るために。


「っ……」


 理解した途端、ざっと血の気が引いた。湧き出る感情に、息が詰まった。

 腹の底が震えるのは、怒りのせいだろうか。強い、強い――悲しみと悔やみのせいか。


 こんな奴に、こんな形で、知らされることじゃなかったはずだ。

 じゃあ、いつ、誰が、なんて決めることもできない。自分も、ふたりには話せなかった。

 自分が話していれば、あるいは、もっと早く白瀬さんの家族が話していれば――こんなひどい形で、明らかになることはなかったのかもしれない。悔んだところで、もう遅い。


 やり場のない感情に呑まれそうになったとき、拳にそっと触れるものがあった。固く握り締めた拳を諌めるように撫でたのは、白い尾だ。


『そなたが責を負うな。これは白瀬の負うべき責よ』


 涼やかな冷たい声が、腹の底でどろどろと渦巻いていたものを鎮めていく。


『その手も、その心も、そなたを傷つけるものではない。達央たつひさを思う存分詰り、殴るためにとっておくがよい』


 冗談なのか本気なのか、白姫さんの淡々とした言葉に、拳の力が緩む。黒い靄の影響を受けていたのだろうか、先ほどまでの感情の渦は、憑き物が落ちるように洗い流されていった。

 そうだ。今は後悔しているときじゃない。

 雪尾さんにまとわりついている黒い靄を掃い、白瀬さんの『目』を取り戻すことが、今、するべきことだ。

 一度解いた拳を、今度は気合を入れるために握る。


「……はい、白姫さん」


 しっかりと頷けば、白姫さんが前に進み出て、鋭い爪を出した大きな足で人形の頭部を踏み潰した。

 五月蝿うるさい奴は好かん、と言う白姫さんの後ろの方では、すでに破壊された人形が地面に倒れていた。


『さて……あの甘ったれを、ひとつ、引っ叩いてやろうかの』


 言うなり、白姫さんが躍り出した。牙を剥く雪尾さんに、一喝と共に飛び掛かる。


『我を忘れおって、この未熟者が!』


 二回りは大きな体躯が、雪尾さんを吹き飛ばす。ぎゃんっと悲鳴をあげて地面を転がる雪尾さんを横目で見ながら、俺は白瀬さんの側に駆け寄った。

 人形の手の中にある青白い球体を取ろうとしたとき、頭と片腕を無くした男の身体から、黒い靄の塊が飛び出す。身体の周りを覆った黒い影が、じりじりと圧し掛かってくる。


「ジャマするな、コゾウ」

「くっ……」

「コレハ、アタシんダ。……ヤクタタズ、なんて、イワセナイ。アタシは、アタシハ、りっぱナ、イヌガミに、なる。……カタシロを、フッカツさせて、ミカエシてヤル……」


 黒い影の中で、無数の赤い目が揺らめく。ぞわぞわと身体に這う虫のような感覚に気持ち悪くなるが、歯を食い縛って堪えた。コートのポケットの中に手をやりながら、赤い目を睨み返した

 

「……だったら、俺は、白瀬さん達を可哀想だなんて、言わせない。あんたに、『目』は渡さない。これは、白瀬さんと、雪尾さんの、ものだ……っ!」


 指先に触れたものを、引っ張り出して影に突き出した。

 悲鳴が上がるのと同時に、手の中にあった物がじゅっと音を立てて燃えあがる。いつも身に付けている、祖父がくれた清めの塩を包んだ和紙と、母と弟がくれたお守りだ。

 犬神に効くかはわからなくて一か八かだったが、一時凌ぎにはなったようだ。そして、その一時凌ぎで十分だった。

 身体の上を、白い風が通り過ぎる。

 先ほどと比べ物にならない断末魔が響き、少し離れた場所で、降り立った白姫さんが黒い残滓を吐き出した。


『……哀れなのは、貴様も……我も、同じであったな』


 小さく呟かれた声は、靄と共に掠れて消えていった。

 中身を失った人形が、からりと崩れて地面に倒れる。身を起こして、俺が青白い『目』を拾ったときだった。

 視界の端に白いものが映って、身体が強く引っ張られた。一瞬浮いた背中が地面に強く叩きつけられて、視界がぶれる。


「ぐっ……」


 仰向けに倒れた俺の肩に、鋭い爪を食い込ませて、強い力で地面に押さえつけてくるのは。

 雪尾さんだった。


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