64 白い犬と、青い目(中編)
雪尾さんによく似た風貌の、されどより冷たく深い青色の目を持つ大きな犬神は、身体をふるふると震わせた。濡れた犬が水気をはらうような仕草で、ぱりっと電気のようなものが振り払われる。
『やれ……“けぇたい”とやらは便利ではあるが、どうも性に合わんの』
「しっ、白姫さん、どうしてここに……」
『達央がそやつを使って“送った”までよ』
白姫さんの目線が示すのは、俺の手に握られた携帯電話だ。
『声が届けば呪も届く。実体を持たぬ我らであれば、呪に乗って飛ぶことも容易いわ』
あっさりと言ってくれるが、電話から犬神が出てきた事実に理解が追いつかない。いくら霊や不可思議なモノを見ることができても、祖父のように霊や犬神に関する知識が特別にあるわけではない。
混乱する俺の頭の中で、ぴしゃりと打つように声が響いた。
『呆けてないで、早う案内せぬか』
強く鼻先で突かれて、はっと我に返る。確かに、今は驚いている場合ではなかった。
お兄さんが言っていた助勢は、白姫さんのことなのだろう。白瀬さん達を狙っているのが犬神筋の者であるのなら、見ることだけしかできない自分だけで行くよりも心強い。
頷いて、「こっちです」と図書館の方に向かって走り出す。隣に寄り添って宙を駆けていた白姫さんは、やがて低く唸った。
『雪尾の気配が辿れぬ。ほんに厄介なことよ』
「気配、ですか?」
『犬神は離れていようとも、契約した主や同胞の気を感じ取る。元々魂を分かっておるからのう。繋がっておる糸を辿るようなものよ』
されど、と白姫さんは正面を睨むように青い目を細める。目指す図書館の方角だ。
『……臭うな。外道か』
白姫さんは不快気に鼻に皺を寄せた。それを横目で見ていた矢先、赤信号に引っかかってたたらを踏む。車の往来に遮られて歯噛みしていれば、白姫さんが身を乗り出した。白い毛並みが視界を覆い、青い目がこちらを捉える。
『首に掴まれ。人間の足で行くより、我が飛ぶ方が早い』
「え、飛ぶって……」
『早うせぬか。猫の子のように運ばれたくはなかろう』
白姫さんがくわっと口を開いてみせる。首根っこを咥えられる前に、俺は急いで彼女の首に両腕を回した。
ひやりと冷たい毛は柔らかくて、こんな場合でなければ感慨を覚えていただろう。しかし今はそんな余裕もなく、ぐんと身体に重力がかかった。
「わっ…!」
景色が流れる。自分で走るよりも圧倒的に速く、目まぐるしく色が流れていく。靴の底が宙を踏み、頬に吹き付ける空気が強く冷たい。耳に届く音を全て風が掻き消していく。
犬神と共に宙を飛んでいるのだとわかったが、驚くよりも、振り落とされないように白い毛並みにしがみ付くので精一杯だった。まるでジョットコースターに乗っている気分だ。上下左右に揺れる浮遊感に酔いそうになったとき、風が止んで、身体にかかっていた圧力が無くなった。
突然の停止に、掴んでいた手の力が緩んでしまう。勢いで宙に投げ出された俺のコートの襟を、結局白姫さんが咥えて地面に降ろしてくれた。
「す、すみません」
『気にするな。それより……』
白姫さんがすっと青い目を細める。くらくらする頭を押さえながら、俺も辺りを見回した。
そこは、図書館前にある広場だった。視界がぼやけるのは、焦点が定まらないせいだけではない。黒い靄のようなものが周辺に漂っている。
先ほど白瀬さんの側にいた虫と同じ気配だ。ぞわぞわと押し寄せる嫌悪感に身を強張らせれば、俺の背に白姫さんが寄り添った。
『離れるでないぞ、高階の者』
低い声でいった白姫さんが、大きく白い尾を振って、がうっと吠える。空気が震え、取り囲んでいた黒い靄が吹き飛んでいき、視界が開けた。
目を凝らせば、四阿の近くに人影が見える。靄を次々と祓う白姫さんと共に駆け寄れば、人影が次第にはっきりと見えてきた。
四阿の近くで、地面に倒れている人。
見覚えのあるベージュのピーコートに、チェックのマフラー。――先ほど喫茶店で見かけた白瀬さんの格好と相違ない。
倒れたまま、彼女は動かなかった。意識を失っているだけなのか、それとも――。焦りが増すのは、白瀬さんの傍らにもう一人、別の人物がいるからだ。
黒いコートに黒いマフラーという黒ずくめの男は、倒れた白瀬さんの側に膝を付き、その頭を膝の上に乗せていた。
「……おやぁ?」
男は白い顔をぐるりとあげて、こちらを見てくる。からんと音を立てて、首を傾げた。
「これはこれは、お早いお着きですねぇ。筆頭犬神まで出てくるなんて、白瀬もずいぶんと椀飯振舞なことで」
うふふと笑いを零す唇は、まるで紅を引いたように赤い。白い顔の中、墨で描かれたような目がゆったりと細められた。
俺の隣で、白姫さんが威嚇するように唸った。
『下田代の外道物が。人形ごっこも大概にせぬと、只じゃおかぬぞ』
「おお、怖い。そんな睨まないで下さいよぅ」
『その減らず口、噛み千切ってくれるわ。氷雨が腕を千切ったようにな』
「ああ、あれは痛かったので、勘弁して頂きたいですねぇ」
白姫さんの威嚇にも、男は怯む様子は無い。むしろ懐かしい知己との会話を楽しむようだ。
カタシロと呼んでいたし、白姫さんが知っている相手なのだろうか。白姫さんに視線をやると、苦々しい口調で答えた。
『……かつて、雪尾らを狙った犬神筋の家よ。当主と筆頭犬神の留守を狙う卑怯者であったわ。もっとも、失敗して家は取り潰し、除籍されたがな。その際、下田代の犬神は全て処分されたはずだが……外道はどこまでいっても外道よ』
外道、と白姫さんが吐き捨てる言葉は、おそらく犬神を作る方法を指している。犬の生首を使って作る、残酷極まりない方法だ。
白姫さんの言葉に、男はやれやれと首を振った後、笑みを消した。
「外道外道って、ひどいですねぇ。こっちはアタシだけになっちまったんで、増やすのに苦労したんですよぉ。同じ犬神同士、仲良くしようじゃあありませんか」
『黙れ。我と貴様を同じにするでないわ』
「……アタシもあんたも、大して変わりゃあしませんよ。犬神は犬神。白瀬の犬神が、どれだけえらいってぇ言うんですかぁ?」
『何ぞ…』
「ホントにねぇ、あんなできそこないで役立たずの犬神がもてはやされるってんだからぁ、嫌になっちゃいますよ。……だから、アタシが、ちゃあんと役に立つ犬神にしてあげるんですよぉ」
男は白い顔をかたりと動かして、膝の上を見下ろした。
黒い手袋に覆われた手が、白瀬さんの眼鏡を丁寧に取る。舌打ちをした白姫さんが男に向かって跳ぼうとすれば、いつの間に現れたのか、男とそっくり同じ姿をしたモノが飛び掛かってきた。
黒い靄をまき散らすそれらの間で、男は白瀬さんの閉ざされた瞼の上に手を触れる。
その指先が、ずぶりと白い肌に沈み込んだ。
「なっ…」
言葉を失う俺の目に、男の指が第二関節まで沈み込んで曲げられる様子が、やけにはっきりと見えた。やがてゆっくりと指が引き出される。
黒い指先は、何かを掴んでいた。
ピンポン玉くらいの大きさのそれは眼球のようにも見えたが、ぼんやりと青白く光を放っている。
――『目』だ。
白瀬さんの『目』だ。
それがわかって、俺は黒い靄も気に留めることなく足を踏み出した。
力が全部無くなったら、白瀬さんが雪尾さんを見ることができなくなってしまう。そんなのは駄目だ。ふたりを繋ぐ糸を切らせるものか。
「やめろ!それを返せ!」
怒鳴った俺の声に、男はうふうふと楽しげに笑うだけだ。
「おやあ、坊やもこれを欲しいんですかぁ?だぁめ、あげませんよぉ、これはぁ、アタシがっ――」
男の言葉が、不自然に途切れる。ばきりと音を立てて、白い顔があり得ない角度に曲がった。
唐突な出来事に足を止める俺の足元に、首を無残に噛み砕かれて落ちた頭部が転がってくる。
だが、それには目もくれずに、俺は呆然と目の前の光景を見やった。
「……雪尾、さん?」
白い犬神は黒い靄を纏い、こちらを睨むように青い目を光らせていた。




