63 白い犬と、青い目(前編)
ごめんなさい。
ぼくのせいで。
ごめんなさい。
ずっといえなくて。
ごめん。
ごめんなさい。
それでも、ぼくは――
*****
店の前で、俺は白瀬さんと雪尾さんを見えなくなるまで見送った。
いつも通り、白瀬さんの隣に寄り沿って歩く雪尾さんのしっぽは、力強く揺れている。あの黒い『虫』のようなものも、黒い残滓も見当たらない。雪尾さんも白瀬さんも気にしていないようだし、きっと自分が気にし過ぎなのだろう。
それなのに、店内に戻りテーブルを急いで片付けながらも、胸の引っ掛かりは消えなかった。むしろ不安は増すばかりで、カウンターの奥で食器を洗っていても、右手にざわざわとした感触が蘇ってくる。スポンジで誤魔化すように強く擦れば、捲った白い袖と黒いエプロンに泡が飛んだ。
「恵?どうしたんだい」
「うん……」
様子がおかしいことに気づいたのか、声をかけてくる伯父に曖昧に返事しながら、消えたはずの黒い糸を辿るように記憶を辿る。
黒い、虫。
手の中で動いた際に、かさりと乾いた音がした。
長い足。翅はあったけど、そう、まるで蜘蛛みたいな。
……蜘蛛。黒い霧。
白い犬が噛み砕いて、尻尾で掃う。
「……あ」
ようやく思い出した。
去年の夏、まだ白瀬さんや雪尾さんと知り合う前、図書館の片隅で見た光景だ。千切れたような人形の黒い腕を、黒い蜘蛛と見間違えた。思い出すのと同時に、乾いた声が脳裏に響く。
『ミィツケタ』
『シラセの、メナシ』
『メナシの、オジョウサン』
あの、黒い人形の腕。
あれは、『白瀬』さんを探していた。
狙って、いた――?
「っ…」
さあっと血の気が引いた。思い出すのが遅すぎだ。見えていたのに見逃すなんて。
とはいえ、強い犬神である雪尾さんが側にいれば、白瀬さんに害があるものは追い払ってくれるはずだ。
……でも、じゃあなぜ、あの黒い虫は白瀬さんのすぐ側にいた?雪尾さんはなぜ気付かなかった。……気付けなかった?
顔色が悪かった白瀬さん。嫌な夢を見たと、雪尾さんを可哀想と言われたと、落ち込んでいた。不安が口に出たのは、彼女の精神が弱っていたから。弱っていたのは、夢のせいで。
夢は、心の内。内に抱える不安は、雪尾さんでは祓えない。だって彼女にとっては、不安も安心も雪尾さんとの間に生まれる。誰かの言葉で、不安が増幅されたのなら。犬神を可哀想だと言ったのは、誰だ?
夢。夢の虫。
黒い、蜘蛛。人形の手。
引っかかっていた点が重なり、色が混ざり合って黒くなり、考えがまとまらない。情報も知識も自分には足りない。一方で募るのは不安と焦燥で、俺は流していた水を止めて伯父に声をかけた。
「ごめん伯父さん、少し出てくる」
伯父は俺の強張った表情に気づいたのだろう、すぐに真顔で頷き、目線で促してくれた。
カウンターの下の棚に置いてあった携帯電話と、椅子に掛けていた灰色のコートを取って、店内を突っ切って外に出る。
デッキを駆け降り、コートを片袖だけ通しつつ、もう片手で携帯を操作した。電話帳で呼び出したのは、最近登録したばかりの番号だ。一瞬躊躇ったが、迷いを掻き消すように通話ボタンを押した。
しばらくの沈黙の後、呼出音が耳の中で響く。早くと焦る一方で、やっぱり止めた方がと迷いが蘇える一歩前、五回目のコールの途中で断ち切るように音が途切れた。
『はい、白瀬です』
コールの代わりに、若い男性の声が耳に届く。
緊張するのは、初めて彼に電話をかけるからだけではない。彼に聞くことが正解なのか、自分でもまだ解らなかったからだ。
引き結んだ唇を緩めて、白い息を一つ吐き出し、強い声で名乗った。
「高階です。……お久しぶりです、白瀬達央さん」
*****
『……君から電話をもらうのは初めてだな。何かあったのかい?』
突然の電話に、白瀬達央さん――白瀬さんのお兄さんは特に驚いた様子は見せない。まあ、携帯の画面に俺の名前が出たうえで電話を取ったのだろうから、驚いていたとしてもこちらに見せることはしないだろう。
「すみません、急に電話して。話したいことがあって、今、いいですか?」
『ああ』
手短に了承した彼に、俺はできるだけ簡潔に説明する。
白瀬さんの側にいた黒い虫。去年の夏に見た黒い人形の腕。
『シラセ』、『メナシ』という言葉。
白瀬さんの様子がおかしかったこと。狙われているかもしれないこと。
歩きながらの電話はマナー違反だとわかっているが、急く足で煉瓦の路地を進みながら話した。その間、お兄さんは短い相槌で俺の話を先へと促し、ほとんど黙ったまま聞き終える。受話器越しの無音に、ひりひりとした気配を感じ取って、嫌な予感が増してしまう。
「……自分の気のせいだったらそれでいいんです。でも、どうしても気になって。何か気づいたことがあれば、教えて下さい!白瀬さんと雪尾さんが、心配なんです」
一気に話し終わった後に勢い込んでそう尋ねれば、一拍置いて硬い声が返ってきた。
『……その人形は、“メナシ”と言ったのか?』
「俺にはそう聞こえました」
『“目無し”は“能力無し”とは違って、犬神に目を……力を喰われた者を指す言葉だ。つまり“魂”のことを知っている可能性が高い』
魂。
犬神が主の力を全て喰らうことで、新しい犬神を作る核となるもの。
強い犬神を得るために、新たな犬神筋となるため、必要なもの。
お兄さんに聞いた話を思い出して、固唾を飲む。嫌な予感が当たったことは嬉しいはずもなく、腹の底がひやりと冷たくなった。
やはりあの虫は、人形は――いや、あの人形を用いた者が、白瀬さんを狙っていたのだ。
「それじゃあ……」
『知らせてくれてありがとう、高階君。こちらですぐに対処する。私から妹に電話するから、君は……』
「白瀬さんを追いかけます。今すぐ何か起こらないとしても、このまま待つのは嫌です」
間髪入れずに答えれば、お兄さんは少し黙った後、真剣な声で返してくる
『……ああ、頼む。ただし、助勢はすぐに送るから、無茶はしないように。君に何かあれば、あの子が悲しむ』
はい、とこちらが返事を返す前に、ぷつっと性急に電話が切られる。
声は落ち着いていたが、お兄さんも内心では焦っていたのかもしれない。通常画面に戻った携帯を握り締め、俺は白瀬さんの家の方へと走り出した。
しかし五分も経たぬうちに、手の中の携帯が震えて鳴り出す。急いで出ると、お兄さんの声が鼓膜を震わせた。
『高階君!今すぐ図書館に向かってくれ』
「図書館って……」
『さっき電話で聞いた。だが、途中で切れて繋がらなくなった』
端的な物言いが、お兄さんの焦りを示している。感じ取る不穏な気配に加えて、白瀬さんとの電話が切れて繋がらないという状況が、切羽詰まっていた。
わかりました、と電話を切って走ろうとした時、お兄さんの声がそれを遮る。
『高階君、電源は切らずに、そのまま耳から離してくれ』
「え…?」
『今からそちらに送る』
送る?何を?
淡々とした言葉に意味を掴めぬまま、とりあえず言われた通りに離せば、携帯を握った手にずしりと重みがかかった。次いで、ぞぞっと掌から手首、肘へと鳥肌が走る。
嫌な気配ではない。ただ、畏れを感じて背筋が粟立った。
ふわりと頬を撫でるのはひときわ冷たい風と、銀色に揺らめく白い毛並み。
『……言ったであろう、高階の者。我の事をいつでも呼べと』
妙齢の女性の声が頭の中に響く。
『達央は引き摺ってきてやれなんだが、勘弁しておくれ』
俺の目の前に、大きな白い犬神――白瀬達央の犬神である白姫さんが降り立った。
今話の更新に当たり、第65部の白瀬達央の台詞の一部を変更しております。




