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62 白いしっぽと、切れる糸(後編)

 電源が入らない携帯の、黒い画面に映る自分の顔。眼鏡の奥の目が驚いたように瞬きもせず、見つめ返してくる。


「どうして……」


 ゆっくりと顔を上げて辺りを見回せば、図書館の正面玄関の自動ドアの前に『臨時休館のお知らせ ~電気工事のため、三月○日まで休館致します。期間中の本の返却は、返却ボックスにお願いします~』と張り紙をした立札が立っていた。

 ガラス張りの窓は全てブラインドが落とされて、照明が付いていない館内は誰もいないことを示している。

 急な電気工事のため、図書館は今日から明後日まで臨時休館が決まっていた。今日は館内の片付けと準備のために、職員全員が午前中までの勤務となっていたのだ。

 

『今日はお昼過ぎで仕事終わるから』


 朝に、自分で言っていたではないか。

 何で忘れていたのだろう。準備が長引き、最後は館長を含む皆で鍵閉めの確認をして、駐車場で挨拶して帰ったものだ。誰も図書館に残っていないのは知っていた筈なのに。どうして、電話のときに気付かなかったのか。

 建物の周囲の植込みが、冷たい風に吹かれてざあっと音を立てる。灯りの灯らぬ建物は夕暮れの影を取り込んで、黒い闇を内包しているようにも見えた。

 見慣れているはずなのに、まるで、別の場所みたいで。

 ぞわりと背中に寒気が走ったとき、足元で低い呻り声がした。はっとして顔を上げれば、前にある通用口のドアが、きい、と小さな音を立てる。

 細く開いた、ドアの隙間から覗くのは仄暗い廊下。

 そして、ドアの横を掴む――黒い、手。

 どっ、と恐怖で心臓が竦み、息が詰まった。見えない存在を、こんなに強く感じるのは初めてだ。

 早く逃げなくてはと解っていながらも、目が逸らせない。風の音や葉擦れの音に混じって、きちち、と爪の無い指先がドアを引っ掻く音だけが鮮明に聞こえた。

 次の瞬間、ドアを離した手がぐんと伸びてくる。


「っ…」


 捕えようと確かな意志を持つ、黒く長い腕。五本の黒い指が私の眼前に迫る前に、白いしっぽが躍り出る。

 跳躍した雪尾が吠えれば、空気が震えて黒い手の輪郭が揺れる。一陣の風が吹いて、ばんっ、と強い勢いで扉が閉まった。

 雪尾はすぐに私の足元に戻ってきて、急かすように強く押す。閉じた扉が再び開く前にと、急いで背を向けて走り出す。

 先ほどの恐怖からか、膝の力が抜けて転びかけたが、咄嗟に地面に手を付いて、倒れるのだけは防いだ。


「つっ…」


 白いしっぽが心配そうに揺れるのをみて、歯を食いしばり、膝に力を入れる。手を擦り向いたようだが、痛いと言っている場合じゃない。建物沿いに回り込もうとすれば、道の先で待ち伏せするように黒い人影がゆらゆらと揺れていた。

 やけに手足の長い影は、三つ。ゆっくりとこちらへ近づいてきている。

 雪尾が前に立ってしっぽを高く掲げるが、相手の数が多い。私は周りを見て、入ってきた裏門よりも正門の方が近いと判断し、方向を変えた。


「雪尾、こっち!」


 正門に鍵は掛かっているだろうが、乗り越えられない高さじゃない。それに、広場を突っ切れば裏門よりも近いし、正門前は人通りが多い。

 以前は雪で白く染まっていた広場は、今は枯れた芝生となっている。四阿あずまやが並ぶ一角に差し掛かったときだ。

 隣を行く雪尾が急に立ち止まり、警戒するようにしっぽを大きく膨らませた。


 かたん、からり。


 四阿の影がかかるベンチで、乾いた音がする。

 影の中で、ゆらり、と何かが立ち上がった。


「――白瀬のお嬢さん」


 聞き覚えのある男の声が、呼びかけてくる。


「お久しぶりです、お待ちしていました。お見合いの話、考えて頂けたでしょうか?」


 その言葉と声で、彼が下田代家の者――いや、『下田代』と名乗った者だとわかる。私の足元でぶわりと逆立つ白い毛は、ぴりぴりと緊張を纏わせていた。

 からり、かたり、と奇妙な音を立てながら男がこちらへ歩いてくる。

 

「ああ、本当に綺麗な犬神ですねぇ。さすがは大口の真神まがみ、山犬を祖に持つ白瀬の犬神だけある」


 淡々と言いながら近づいてくる男を近づけさせまいと、雪尾が一声吠える。男はやれやれというように肩を竦めて立ち止まると、私の方へ視線を向けてきた。

 四阿の下から姿を表した男は、まるで人形のように整った顔をしていた。白過ぎる肌に、墨で描いたような切れ長の目と、紅を引いたように赤い唇。日本人形を思わせる風貌は、口元にだけ優雅な笑みを湛えており、綺麗なはずなのになぜか恐ろしく感じた。

 黒いコートに黒いズボン、黒いマフラーという黒ずくめの男は、笑みを浮かべたまま尋ねてくる。


「ねえ、白瀬のお嬢さん。お見合いの話、考えて頂けたでしょうか?」


 繰り返される問いかけに、答えることを少し躊躇う。相手にするより、とっとと早く逃げた方がいい。だが、今の状況を作り出している原因であろう彼から、そう簡単に逃れられないこともわかる。

 対峙する覚悟を決めて、私は男に向かい合った。


「お断りします」

「おや、なぜですか。いいお話だと思うのですが」

「……兄から、聞きました。そんな見合い話は無いと」

「おや、それはそれは」


 兄に確認したことを言えば焦ると思ったのが、男は表情を変えない。見合い話が無いことも、そもそも下田代家自体が無いことも、私に知られていると解っているはずなのに。

 下田代家を騙る男は、平然と台詞を続ける。


「またお兄様にご心労をかけられたのですね。貴女に気を遣っただけなのだとわからないのですか?」

「……」

「本当に、ご家族と犬神は可哀想な事ですね。貴女のような見えない者がいるから……」


 つらつらと並べられる言葉達に、以前ならまともに受け取って落ち込んだことだろう。だが、今は相手が嘘を言っていることはわかっている。


「あなたの言葉は、もう聞きません」


 もう、惑わされてたまるものか。

 雪尾を信じると決めた。自信を持つと決めたのだ。


「見合いは断ります。あなたの目的は知らないけれど、雪尾も、白瀬の家も、あなたには関わらせない。可哀想だなんて、言わせない」


 強い口調で言い切れば、男の口がぽかんと開いて止まる。やがてその口の端が、再びゆったりと笑みを作った。


「おや、そうですか。術の効き目が悪くなって、残念です」

「……術?」

「それなら、別の方向からいきましょうか。……ねぇ、“目無し”のお嬢さん」


 男の声音が、変わる。

 低い男性の声に女性のような色が混ざり、ぼやけているのにはっきりと響く声は、昔聞いたことがある気がした。


「せっかくですから、アタシが教えて差し上げましょうねぇ。……本当に可哀想なのは、お嬢さんの方なんですよ」


 笑みを作った口が、うふふと笑い声をあげる。


「ねぇ、お嬢さん。貴女が犬神を見ることができない理由、知っていますか?」

「理由?」


 いきなり変わった話題に戸惑う。だが、私以上に狼狽えたものがいた。

 私の前にいる雪尾のしっぽが、びくりと怯えたように震えたのだ。しかしすぐに、低い呻り声をあげて男を威嚇した。

 

「おや、そんなに怖い顔で睨まないでくださいなぁ。ホントのことを、あなたの大切なあるじに教えてあげるだけですよぅ」

「……あなたから教えられる必要はありません」

「そうですかぁ?でも、知りたいでしょう?見ることができなくなった理由……力が無くなった理由を――っ」


 声が途切れたのは、雪尾が男に飛び掛かったからだ。


「雪尾!」


 さすがに雪尾に人間を傷つけさせるわけにはいかない。咄嗟に制止の声を上げたが、倒れた男の首元、マフラーが肌蹴た部分を見て息を飲む。

 マフラーが覆っていた部分には、首が無かった。

 あるのは、一本の木の棒だけだ。ぱきりと折れて、黒い破片が宙に舞う。芝生に投げ出された男の手もまた、よく見れば木で作られた手で、からんと乾いた音を立てた。


「人形……?」


 人形のように整った顔ではなく、本当に人形だったのか。かなりよくできた人形ひとがただ。

 驚く私を、芝生に転がった頭がからからと音を立てて笑った。


「無駄ですよぅ。こっちも、それなりに準備したんですからぁ」


 聞いたことのある台詞と共に、切れ長の目がにいっと細められて、私を見上げた。

 耳を塞ぐ間もなく、毒のある声が耳に響く。



「貴女が見えないのは、この犬神のせいですよ」


 

 赤い唇が歪み、嗤って告げる。



「犬神が、あなたの“ちから”を喰ったせいですよ」



 犬神の、せい。



「……雪尾?」



 名を呼べば、白いしっぽが、揺れる。震える。


 背後でからりと音がして、伸びてきた黒い手が視界を覆う。

 目の前が黒く翳る中、白いしっぽが見えなくなって。



 ――雪尾。



 繋がっていたはずの細い糸が、ふつりと切れて。

 意識が、途切れた。


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