61 白いしっぽと、切れる糸(前編)
ふつり、と小指に繋がっていた糸が切れた。
抵抗を失って軽くなった左の小指の関節を動かした後、首を傾げる。
「おや、気付かれたんですかねぇ。『目無し』なのに」
犬神に力を喰われ、ほとんど『見る』ことのできない、『目無し』の娘。
娘の弱いところを付いて、見えないことを利用して、少しずつ潜り込めていたのに。
繋がれた細い糸に、娘が気付くことは無いと思っていたのだが。
「……あの、坊やですかね」
そういえば、娘と犬神の周りをうろつく、『目』の良い坊やがいたはずだ。
犬神筋の血を引き、優れた『目』を持つ坊や。
「邪魔は、されたくありませんねぇ」
先を越されてたまるものか。
こっちは、もう十年以上も前から目を付けていたのだから。
「……急ぎましょうか」
人のいない、暮れの四阿の中、ゆっくりと立ち上がる。
黒い糸の切れた左手から、からん、と空虚な音が響いた。
*****
「すみません、ちょっと電話が…」
高階君の顔色が悪いのは気になったが、小さな音量で鳴り続ける携帯電話を無視することもできない。取り出して画面を見ると、職場である図書館の電話番号だった。
急いで出たが、相手の声が聞こえない。もしもし、と数度呼びかけても返ってくるのは、小さな雑音のような音ばかりだ。
通信状況が悪いのかと耳から離してみるものの、画面の上部に表示されている電波の状態は良好だった。再度耳に当ててみたが、声は聞こえずに、やがてぷつりと切れてしまう。念のために折り返してみたが、今度は呼び出し音が続くだけで誰も出る気配がない。
一体どうしたのだろう。少し違和感を覚えながら、ボタンを押して暗くなった画面を見ていれば、背後から声が掛かる。
「……白瀬さん?何かあったんですか?」
遠慮がちな声に振り向けば、高階君が訝しげにこちらを見ていた。顔色は先ほどより良くなっているようだが、表情が硬い。やはり調子が悪そうだ。
話すか迷ったが、結局は「何でもないです」と首を横に振る。職員の誰かが電話を掛けようとして他の人に話しかけられたとか、そういうことだろう。電話に出ないのは、その場から移動したからだろうか。……念のため図書館に様子を見に戻ろうと考えながら、高階君を見上げた。
「それより、高階君の方こそ大丈夫ですか?」
「あ、はい、俺は大丈夫です。……あの、白瀬さん」
高階君は口を開きかけて、少し目線を彷徨わせた後、いつもの笑顔で見送ってくれる。
「……帰り、気を付けて下さいね。雪尾さんも」
「はい。高階君も身体に気を付けて。それじゃ、また」
高階君に挨拶するように白いしっぽが数度揺れて、私の足元へとすり寄って来る。雪尾と一緒に煉瓦の路地から出た私は、図書館に向かうため、家とは反対の方へと脚を進めた。
図書館に向かう足取りは、朝と違って軽い。考え方次第で足取りも、心も、重さがこんなにも変わるのか、と実感する。
『寂しいだけじゃないでしょう?』
『嬉しくて、楽しくて、大好きな人と一緒にいることが幸せで、そういう気持ちの方が、きっと、ずっと大きい』
高階君の、泣きそうな顔と声で告げられた言葉が、泣いてしまうほど嬉しかった。私と雪尾のために言ってくれた言葉は、胸の中に確かな温かさを広げる。
寂しい、可哀想。そんなことばかり見ていて、嬉しいことも幸せなことも無かったことにしてしまったら、本当にそっちの方が可哀想だ。
今ならきっと、目を背けていたことに向かい合っても、目を逸らさずにいられる。
ちゃんと、雪尾のことも、自分のことも見て、考えて。
見合いの話も父と兄に確認して、断ろう。
そう決意しながら、図書館の職員専用の裏門から入り、正面入り口の横にある通用口のドアを開けた。そのとき、ふいに足元の白いしっぽがぶわっと膨らんだ。
かと思えば、私の前に回り込み、ぐいぐいと押してくる。
「わっ、どうしたの?」
いつになく強く押されて、私は後ろによろめいてドアから手を放した。これでは図書館に入れない。困った、と思ったとき、鞄の中の携帯電話が再び鳴った。
もしかして図書館から、と急いで取り出して確認すれば、表示されているのは『達央兄さん』の文字だった。
お見合いの件で連絡しようと先ほど思っていただけに、なんてタイミングだろうと驚く。
しかし出た途端、大きな声で名前を呼ばれてさらに驚いた。いつも冷静で落ち着いた兄にしては珍しく焦った声だ。つい先日、高級牛乳と焼菓子の詰め合わせのお礼で電話を掛けた時には、普通の態度だったと思うのだが。
戸惑いながらも、電話を持ち直して声を返す。
「兄さん、何かあったの?」
『あ……ああ、いや……無事か。今どこにいる?』
「無事って……ええと、今は勤め先の図書館にいるよ」
要領を得ない兄の問いかけに首を傾げながらも、せっかく向こうから掛かってきたのだし、と私は口を開いた。
「兄さん、あの……お見合いの事なんだけど……」
『見合い?莉緒のか?』
「ううん。私に、お見合いの話があるって聞いて」
『お前に?どういうことだ』
「あ……ええと、また夜に掛け直すから、そのときにちゃんと話を……」
外でするような話じゃないか、と切ろうとしたとき、強張った声がそれを遮った。
『その話、誰から聞いた?相手は誰だ?』
兄の声は真剣で、有無を言わさぬ強さがある。まずいことを聞いたのだろうか。
「その……大神分家の下田代家って……」
『……いいか、よく聞け。そんな見合い話はない』
「兄さん?」
『大体、そんなことがあるはずがない。下田代家は、もう……』
少し言い淀んだ後、兄が低い声で続ける。
『下田代は十年以上前に取り潰しになって、大神分家だけでなく、犬神筋からすでに除籍されているんだ。一族も、記録上では残っていない』
「え……」
電話を耳に当てたまま、私は呆然とする。
お見合いの話どころか、下田代家自体が存在しない?
じゃあ、あの電話を掛けてきた者は。下田代と名乗ったあの男性は。
混乱する私の意識を引き戻すように、を備えた兄の声が響く。
『聞いているか?今すぐ高階君の所に行きなさい。彼なら見えるし、お前の力になってくれる』
「ま、待って兄さん、どうして高階君のことを……」
『それは後で話す。いいか、雪尾から絶対に離れるな。すぐに白姫を向かわせるから、電話はこのまま繋いだ状態で――』
ぷつっ、と唐突に兄の声が途切れた。一瞬の静寂の後、つーと終話を示す電子音が耳に届く。
「……兄さん?」
耳から電話を離して見やれば、画面は真っ黒になっていた。電源ボタンを押しても、何の反応も見せない。
茫然と立ちすくむ私の耳に、りん、とどこかで聞いた風鈴の音が蘇えった。




