60 白い犬と見えない彼女と、見えること(後編)
伯父の助言で気を取り直して仕事に戻ったものの、そうそう気が晴れるわけではない。仕事に集中しようとする頭の中に、先ほどの自分の発言と白瀬さんの涙が時折ちらついてしまう。
溜息を押し殺しながら、客が帰った後のテーブルを片づけて、黙々と拭いていたときだった。何の気なしに顔を上げれば――
「っ!?」
目の前に、白い毛並みが美しい、凛々しい犬の顔があった。
反射的に仰け反った俺の手から、お薦めのコーヒーの種類が書かれたカードスタンドが落ちて、カランと音を立てる。店内に半分ほど残っていた客や、カウンターにいる伯父の心配そうな視線がこちらに向けられた。
「っ……すみません」
慌ててしゃがみこんで拾う己の心臓は、ばくばくと落ち着かない。
……相変わらず、登場の仕方が心臓に悪い。図書館の本棚で本を抜き取った時に、後ろから犬の顔が出てきたときの衝撃に近い。怖くは無いが、びびる。
呼吸を整えながら立ち上がる俺の目には、テーブルの上に雪尾さんがちょこりと前足を揃えて座っている様が映っている。
見下ろしてくる青い目は感情が読み取れず、どきりとした。
なぜ雪尾さんがここに現れたか。
先ほど白瀬さんが泣いた時、雪尾さんはどんな目をしていただろう。
もしかしたら、彼女を泣かせた俺に対して、怒って――
嫌な方向に考えて固まる俺に、雪尾さんはふいに前足を伸ばしてくる。
咄嗟に目を閉じた俺の額に、べふっと強めに押し付けられたのは足の裏だ。柔らかな感触にそっと目を開ければ、そのままべふぺふと何度か叩かれるものの、それ以上のことはされない。
……これはどういうことなのだろう。
困惑している俺に構わず、雪尾さんは前足を降ろしてテーブルから飛び降りた。揺れる白いしっぽを追った視線の先で、出入り口のドアが開く。
暖房の効いた店内に、外の冷気と共に入ってきたのは白瀬さんだ。こちらを見て会釈すると、レジの前に立った。
会計だ、と急いでレジの方へと向かいながらも、胸の中には未だ残る困惑と湧き出た緊張が渦巻く。側まで行けば、白瀬さんは足元で揺れる雪尾さんの白いしっぽを見た後、俺に向かって申し訳なさそうに眉根を下げた。
「ごめんなさい、雪尾が……」
テーブルに乗って、と白瀬さんが小声で言う。おそらく、テーブルに乗り上がった白いしっぽを窓越しに見ていたのだろう。
「え、いや、全然、大丈夫です」
首と手を横に振りながら言えば、白瀬さんはほっと息を付いた。会計を済ませる彼女の顔には、先ほどの陰りは見えない。
有耶無耶な感情のまま出入り口の扉を開き、店の前で見送ろうとしたが、覚悟を決めて呼び止める。
「あの、白瀬さん、さっきは……」
「はい?」
振り返って見上げてくる眼鏡の奥の目は潤み、赤味が残っていた。
泣いた痕を残した目だ。
う、と思わず目線を落とせば、見上げてくる雪尾さんの青い目と目が合った。じーっと見上げてくる目に、怯んでしまう。
「……雪尾さんの、ことなんですけど。さっき、俺に怒ってたりとか……」
「え?どうしてですか?」
「いや、その……こう、額を、べしって……」
何と説明していいのやら。口ごもる俺に、白瀬さんはわずかに首を傾げた後、逆に尋ねてくる。
「雪尾、怒っているように見えますか?」
言われて、ふと先ほどの叔父の言葉を思い出す。
見える目を持っているんだから、見ないと勿体ないよ、と。
「……」
一つ、息を吸って。
ちゃんと雪尾さんを見れば、青い目をぱちりと瞬かせ、不思議そうに首を傾げて見上げてくる。
怒りの気配は感じ取れなくて、拍子抜けした。
白瀬さんは俺の視線を追うように、雪尾さんを見下ろした。
「……雪尾は、高階君を呼びに行ってくれたんじゃないかな。レジの前で、すごく得意げにしっぽ振っていたから」
えらいでしょ、ほめて、って言わんばかりに。
ふふっと笑みを零した白瀬さんにつられて、俺は強張った頬を緩め、詰めた息を吐き出した。
「……そう、ですね。そうでした」
怒っているように見えたのは、自分の心が反射したせいだろう。罪悪感を、自分を罰したいと言う身勝手な思いを、雪尾さんに重ねただけだった。
今さら気づいたが、先ほど前足で額を小突かれた感触は、あの雪の日のときとよく似ていた。
泣きそうだった俺を、不思議そうに見下ろしてぺふぺふと前足で叩いてきた雪尾さん。怒っていたわけではなく、ただ白瀬さんのために俺を呼びに来ただけで。それに追加して、もしかして心配されていたのか、慰められていたのかもしれない。
「……うわああ、恥ずかしい」
情けない、と両手で赤くなった顔を押さえて呻く俺に、くすっと笑う声が届く。
「高階君、さっきは雪尾のこと、わかってるって言ったのに」
「う……」
「ふふ、なんだか少し、高階君に勝った気分です」
口元を緩ませた白瀬さんが、悪戯っぽく笑った。
まさか白瀬さんから駄目出しをされるとは思わず、少し凹む。しかし、同時にくすぐったい気持ちにもなる。彼女がこんな風に砕けた態度になるのは初めてだ。
さらに熱くなる頬を手で押さえながら何とも言えずに黙る俺に、白瀬さんは笑いを収めて「ごめんなさい、冗談です」と謝った。
「……でも、そうですよね。見えても見えなくても、きっと、解ることも解らないこともあって。見えないから解らないって、全部諦めるのは、勿体ないなって」
見えるからといって、全てが解るわけではない。
見えないからといって、全てが解らないわけではない。
見えることだけが大事じゃない。
気付いて、解るために努力することも、それ以上に大事なことで。
「さっき、高階君が言ってくれたこと……昔、兄もそう言ってくれたのを思い出しました。雪尾は私のことが大好きだって、信じてやれって、言ってくれたんです」
どうして忘れていたのかな、と白瀬さんは苦笑した。
白瀬さんが目線を落とせば、雪尾さんも彼女を見上げて、しっぽを嬉しそうに振る。合わない目線が、ぴたりと合ったようなタイミングだった。
「二人もそう言ってくれているのに、何だか一人で落ち込んじゃって……」
きゅっと拳を握った白瀬さんが顔を上げて、俺の目を見つめてきた。黒い目は逸らされることなく、焦点を結んで前を見る。
「私、もっと自信持ちます。私も、雪尾のことが好きだから。もっと一緒にいたいから」
「……はい」
力強い彼女の眼差しと言葉に頷いて、俺は笑う。
今度は、さっきみたいに無理して笑う必要は無かった。
嫌われなくて良かった。
それ以上に、一方通行にぶつけた自分の思いを、白瀬さんが受け取ってくれたことが、それが彼女のためになったことが、嬉しかった。
調子に乗るわけではなかったが、ただ少し泣きそうだったので、軽口で誤魔化してみる。
「俺も……もっと雪尾さんのことが解るようになりたいです。白瀬さんに負けないくらい」
「えっ、それは……ま、負けませんよ」
「白瀬さん、そこはもっと自信を持ってくれないと」
「う……」
むうと唇を引き結ぶ白瀬さんに俺が笑い出せば、間もなく彼女も一緒になって笑った。
*****
「それじゃ、またのご来店をお待ちしてます」
「はい、また来ますね」
仕事中なので長話をするわけにもいかず、俺が一礼すれば、白瀬さんも話を切り上げて軽く一礼する。
そのとき、彼女の耳元で何か黒いものがちらりと動いたように見えた。小さな羽虫のようにも見えたが、足が太く長い気がする。三月後半とはいえ、気の早い虫だろうか。
「白瀬さん、何か虫みたいなのが……」
手を伸ばして、軽く追い払おうとしたときだ。
ふ、と指先に黒いものが触れた瞬間、背筋にぞぞっと寒気が走った。一気に血の気が引いて、鳥肌が腕から首筋に広がる。
「っ…」
ああ、これは――やばいものだ。
直感でわかる。
すぐに手をどけなかったのは、『それ』が白瀬さんの側に居たからだ
白瀬さんの側にいさせちゃいけないと何故か思い、頭で考えるより先に手が『それ』を掴む。
ぐしゃ、と何かが薄い紙が潰れた感じがした。がさがさと手の中で動く感触が気持ち悪くて、耳の後ろまで鳥肌がせり上がる。
「う……っ」
気持ち悪い。キモチワルイ。
それでも拳を開かずに白瀬さんから遠ざければ、掌から寒気がぞぞっと腕に伸びてくる。
一気に重くなる身体。ざわざわと羽音の様な耳鳴りが襲い掛かる。回る視界に黒い虫が集るように影がかかる。
「――た……しな…くん――?」
白瀬さんの声が耳鳴りの向こうで聞こえ、足の力が抜けそうになる直前。
俺の右手を、ぱくっと雪尾さんが咥えていた。
「……って、わあああっ!?何してんですか雪尾さん!」
慌てて手を引こうとしたが、雪尾さんは構わずに、あぐっと顎に力を入れる
触れる感触は温かい毛布に手を突っ込んだようなもので、鋭い牙や歯が俺の皮膚を傷つけることは不思議と無い。しかし、手の中にある『それ』はそうではなかったらしい。
きぃぃぃっ、と手の中にある『それ』が蠢き、羽音混じりの甲高い声で鳴くのがわかった。
やがて手の中で弾けるような感触がした後、声は聞こえなくなり、同時に目眩も気持ち悪さも吹き飛んでいた。
はあっと大きく息を吐いた俺の額に、汗が滲む。
「高階君、どうしたんですか?雪尾が何か…」
「ああ、いや、えと……雪尾さんは何も……」
雪尾さんはすでに俺の手から口を離し、けふっと黒い霧をまずそうに吐き出した。
霧散して消える、黒い残滓――。何だろう、前にも同じ光景を見た気がする。引っかかりを覚える俺に、白瀬さんが心配そうに尋ねてくる。
「大丈夫ですか?」
「はい……すみません、ちょっと、虫に驚いただけで」
「でも――」
白瀬さんがなおも言葉を続けようとした時、彼女のバッグから携帯電話の呼び出し音が響いた。
すみません、と一言断ってから電話に出る彼女に、俺はついに『それ』のことを告げることができなかった。
雪尾さんがいるから、大丈夫だろう。
そんな思い込みで、白瀬さん達に近づく危機の予兆を見逃してしまったことを、ひどく後悔することも知らずに――。




