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59 白い犬と見えない彼女と、見えること(前編)


 どうして彼女に見えないのだろう。

 どうして彼女に教えてあげなかったのだろう。


 彼女が悪いわけではないのに。

 雪尾さんが悪いわけでもないのに。


 いや、悪いとか、悪くないとか、そういうことじゃなくて――


 きっと、どうしようもないことだから、こんなに遣る瀬無くなるんだ。




*****




「ああああ、俺の馬鹿……!」


 カウンター内に戻るなり、しゃがみこんで頭を抱えれば、銀色のポットを手にした伯父が横目で呆れたように見下ろしてくる。


めぐむ、仕事中だよ」


 注意しながらも、伯父はペーパーフィルター内の均したコーヒー粉に、細い湯をゆっくりと注いだ。湯の音が止み、蒸らしに入ったのか、ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 目を覚ます豊かな香りに我に返り、急いで立ち上がった。すみません、と謝って、注文の入っていた別のコーヒーの豆を背後の棚から取り出す。

 サーバーにドリッパー、ドリップ用のペーパーを折ってセットしていれば、再び湯の音が耳に届いた。

 蒸らしが終わったのだろう。膨らんだコーヒー粉に真ん中から円を描くように、伯父が傾けたポットから、ゆっくりと少しずつ湯が注がれる。

 細かい泡と共に膨らむコーヒー粉を見下ろしながら、叔父が口を開く。

 

「……白瀬さんと何かあったのかい?」


 唐突な問いかけに、動揺した俺の手から計量スプーンが滑った。はしっ、と何とか両手でキャッチして冷や汗をかく俺に、伯父がくすりと笑う。


「青春だねぇ」

「伯父さん……からかわないでよ。そういうのじゃないし……」


 項垂れながら、量り取ったコーヒー豆を手動ミルに移して、一定の速度でハンドルを回す。バイトを始めた頃は給仕しかさせてもらえなかったが、今はこういった下準備を教えてもらっている。

 お湯の音と、コーヒー豆を挽く音。漂う香りに、次第に落ち着きを取り戻しながら、俺は先ほどの出来事を思い返した。






 ――屋外で身体が冷えたのかと具合を尋ねた俺に、白瀬さんは寝不足なのだと答えた。

 眼鏡の奥の目が少し赤いのは、そのせいか。しかし顔色も悪くて……というより、表情がいつもよりも強張っているように見える。嫌な夢、と言葉を濁した白瀬さんが気にかかり、駄目元で尋ねてみると、しばらく俯いていた彼女が口を開いた。


『夢の中で、雪尾が可哀想だって言われたんです。私は、しっぽ以外見ることもできないし、撫でてあげることもできないし……。雪尾が寂しそうで、可哀想だって……』


 ぽつりと零された声は小さくて、消えそうだった。

 静かなボサノバが流れる店内だったら聞こえなかったかもしれない。しかし、静寂が漂う冷たい空気のデッキの上で、それはやけに響き、頭の中をがつんと殴られたような衝撃があった。


 頭を過ぎったのは、あの雪の日の映像だ。

 テーブルの上を見る彼女の目は、遠くを見るように焦点が曖昧で、雪尾さんの姿を探すときと同じ色を浮かべている。


 雪尾さんの姿を見ることができない彼女が抱く、不安の色。

 その色が、何故だろう。儚げな白い雪に、黒い足跡がついて影が広がるような。

 自分まで不安になってしまったのは、きっと、彼女が不安を初めて言葉にしたからだ。


 違う。

 可哀相なんかじゃない。

 そんなこと思ってほしくない。


 だって俺は、ふたりを見ているだけでも、嬉しくて、幸せなのに。


 そうやって、反射的に口にした言葉は、彼女を傷つけて――






「……勝手なこと、言っちゃったなあ……」


 溜息と共にぽつりと呟く。


 言い過ぎたと解っている。自分の考えを押し付けてしまった。

 白瀬さんを責めるつもりは無かったのに、雪尾さんのことが見えるからと、説教じみたことを言ってしまった。強い口調になってしまったのは、気を張っていないと自分が泣きそうだったからだ。

 白瀬さんの涙に我に返って、慌てて謝った。それでもこちらを心配させまいと微笑む彼女に、俺も笑い返すことしかできなくて――。


 自分の大馬鹿野郎、と情けなく項垂れる俺の横で、ふふっと笑う気配がした。

 隣を見れば、伯父はポットを降ろしてコーヒーが抽出されるのを待っている。ぽたりぽたりと落ちる雫を見る伯父が、ふと口を開いた。


「よかったんじゃないかな」

「何が……」

「そうやって、『勝手なこと』を言えるようになったんだろう?誰にでも当たり障りない態度の君が、珍しいこともあるものだね」

「……」


 叔父の言葉に、俺は手を止めた。「手は動かす」とすかさず注意されて、再びハンドルを回す。中挽きした豆をミルから出してフィルターに移した後、手を止めた。


「……でも、白瀬さんを傷つけた」

「傷つけようと思って言ったわけじゃないんだろう?」

「そう、だけど……でも……」


 言葉を濁す俺を横目で見た後、伯父はドリッパーを外して、コーヒーサーバーをゆっくりと回した。


「心は見えないから、難しいよね。でも、傷ついた部分もあるかもしれないし、救われた部分もあるかもしれない」


 濃度の濃い部分と薄い部分が混ざって、均一になったコーヒーが、二つの白いカップに注がれる。


「傷ばかりを見ていたら、わからないこともあるんじゃないかな。せっかく見える目を持っているんだから、いろいろなものを見ないと勿体ないと思うよ」

「伯父さん……」

「まあ、これも『勝手なこと』かもしれないね。誰かのためでも、自分のためでも、人間は割と自分勝手なものだよ」

「……」


 にこりと笑った伯父は、カップをソーサーに乗せてスプーンを添える。


「はい、二番のテーブルに持って行って」

「……はいっ」


 俺は頷いて、仕事を再開すべく、ぱちりと頬を叩いて表情を引き締めた。


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