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58 白いしっぽと夢の虫(後編)


 現実でも、私の膝の上に雪尾が頭を乗せていたらしい。

 私が起きて動いた拍子に、雪尾の頭は滑ってデッキに顎から落ちたそうで、足元ではふるふると白いしっぽが震えていた。……痛がっているようである。


「ご、ごめんね、雪尾」


 慌てて謝る私の傍らでは、ばっちりその場面を目撃してしまったらしい高階君が、肩を震わせて声を出さずに笑っている。声を押さえている分、苦しそうだ。相変わらずの笑い上戸であるが、さすがに雪尾に申し訳ないと思ったのか、何とか笑いを抑えながら謝ってきた。

 

「……っす、すみま、せん……」

「ええと、その……」


 見下ろした雪尾のしっぽの震えはだいぶ収まっているから、たぶん大丈夫だろう。

 曖昧に苦笑して、雪尾に「大丈夫?」と声を掛ける。やがて起き上がったしっぽは一度私の脚をぱしりと叩いた後、高階君から離れた椅子にととっと腰掛けた。


「あああ、すみません、雪尾さん」


 高階君は情けなく眉尻を下げた。雪尾は少し怒っているようで、つーんとそっぽを向いている、と困り顔で説明してくれる。

 その様子が頭に浮かんで、ふふっと笑いを零した。だが、高階君は軽く首を傾げて尋ねてくる。


「……どこか具合悪いですか?」

「え?」

「顔色が良くないですよ。やっぱり外は寒いんじゃ…」


 彼の指摘にどきりとしながらも、軽く笑って返す。


「少し寝不足なだけです。最近、夢見が悪くて」

「夢ですか?」

「あ……その、ちょっと、嫌な夢を見て……」


 言葉を濁せば、高階君はしばし口を噤んでお盆の上のカップやポットをテーブルに移し、私と雪尾の前に置いた。空になったお盆を抱えて、高階君は微笑む。


「悪夢って、人に話すと良いそうですよ。俺も小さい頃、怖い夢見たときは祖父に聞いてもらいました」

「……」

「あ、いや、すみません。無理に話せっていうわけじゃなくて、その……気が向いたら、いつでも聞きますっていう意味で……」


 遠慮がちに言う高階君をしばらく見上げた後、私はテーブルに視線を落とす。

 紅茶のポットには、外気で冷めないための配慮か、花柄のティーコジーが珍しく被せられていた。白いキルト地に散らばった桜の花びらを見ながら、ぽつりと呟く。


「……夢の中で、雪尾が可哀想だって言われたんです」


 本当は、数日前に現実でも言われた。

 いや、ずっと前から、親戚達に陰でそう言われていたのを知っている。


「私は、しっぽ以外見ることもできないし、撫でてあげることもできないし……雪尾が寂しそうで、可哀想だって――」


 言った後で、すぐに後悔した。これは夢の話じゃない。ただ自分の抱える不安を吐露しただけだ。高階君に言ってしまうなんて、馬鹿だ自分は。

 膝に置いた拳を握り締めて、何でもないと言い繕うとしたときだった。


「……白瀬さんも、そう思うんですか?」


 高階君の硬く低い声が、耳に届いた。


「白瀬さんも、雪尾さんを可哀想だと思っているんですか?」


 その声は落ち着いているようで、小さく震えていた。怒りを抑え込んだような、泣くのを我慢しているような、そんな響きを持っていた。

 顔を上げると、高階君は強張った顔で一度目を伏せた後、わたしの目をまっすぐに見下ろしてくる。


「俺は、そうは思いません」


 力強く、彼の声と目が否定する。


「俺は“見える”から、白瀬さんの気持ちはわからない。だけど“見える”から、雪尾さんの気持ちはわかるつもりです」

「……」

「俺は、雪尾さんがいつもあなたの側にいて、あなたを見ていることを、知っています。雪尾さんがどれだけ白瀬さんのことが好きなのか、見ているだけでわかります。離れたくないって、あなたに気づいてもらいたいって、雪尾さんはいつも一生懸命だ」

「高階君……」

「確かに、寂しいって思うこともあるかもしれないけど……だけど、寂しいだけじゃないでしょう?嬉しくて、楽しくて、大好きな人と一緒にいることが幸せで、そういう気持ちの方が、きっと、ずっと大きい」


 怒鳴っているわけではないのに、高階君の声は私の耳に強く大きく響いて、頭の中にあった雑音を掻き消していく。

 泣きそうに揺らぎながらも逸らされることの無い、必死な彼の眼差しが、私の目を捉えて離さない。


「それを全部、可哀想だって言ってしまうのは、そっちの方が可哀想です。雪尾さんも……あなたも」

「っ……」

「雪尾さんは、可哀想なんかじゃない。他の誰が何を言おうとも、白瀬さんだけは、可哀想だなんて思わないで下さい。……もっと、自信を持って下さい。雪尾さんはあなたのことが大好きで、側にいれて幸せだって」


 言い切った高階君を、私は呆然と見上げた。

 高階君の言葉が、じわりと胸の奥に沁みていき、そして――


「っ白瀬さん!?」


 高階君がはっと息を呑み、顔色を変える。


「すみません!言い過ぎました、俺っ……」


 慌てふためく彼の顔がぼやけて見える。どうしてだろうと思えば、頬を温い水が伝う感触がして、ようやく自分が泣いていることに気づいた。

 すみませんごめんなさい泣かせるつもりはと真っ青になる高階君が、ナプキン立てから紙ナプキンを全部取って渡してくる。珍しく狼狽える彼の姿に、ふっと口元が緩んでしまう。

 涙が出ているのに、悲しくはなかった。辛いわけでも苦しいわけでもなく、気が緩んだと言った方が正しいだろう。ほろほろと涙が落ちるとともに、抱えていた不安も一緒に流れていくようだった。

 泣きながらも不思議と静かな気持ちでいる私とは対照的に、高階君は狼狽えっぱなしだ。


「本当にすみません!」

「……大丈夫、平気です」

「え、いや、でも……」


 紙ナプキンを差し出した格好で戸惑う高階君の手から、そっと紙ナプキンを受け取る。

 まだ心配そうな顔をしている彼を、私は涙を拭いて見上げた。


「……ありがとう、高階君」

「……」

「教えてくれて、ありがとう。……雪尾のことも、私のことも、ちゃんと見てくれて、本当にありがとう」


 涙の滲んだ目で笑ってみせれば、高階君は茶色の目を丸くして、やがてくしゃりと顔を歪める。泣き出しそうな顔で笑った彼は、はい、と小さく頷いた。


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