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57 白いしっぽと夢の虫(中編)

 思ったよりも仕事が長引き、終わったのは午後三時を回っていた。

 陽が傾いてきた帰り道、一週間ちょっとぶりに訪れた喫茶シリウスは混んでいた。休日の午後だから仕方ないだろう。

 迎えてくれた高階君が、外のデッキなら空いていると提案する。どうしようかと足元のしっぽを見やれば、ぱったぱったともう店に入る気満々で、思わず高階君と顔を見合わせて吹き出してしまった。

 幸い、晴れているので日差しは暖かい。外でも大丈夫と言えば、高階君は日当たりのいい席に案内してくれた。

 すぐに持ってきてくれたのは、熱いお茶と淡い水色のブランケットだ。彼の心遣いが嬉しくて、ブランケットとお茶の温かさにほっとする。

 店の周りに植えられた木々が陽射しを和らげて、ちょうどよい暖かさだ。頭だけ影になるように少し位置を変えて、椅子の背にもたれた。

 まだ空気はひんやりとしているが、図書館の暖房で火照っていた頬には心地良い。

 いつもの店内とは違い、他の客の話し声やボサノバの音楽は聞こえず、辺りは静かだった。時折聞こえる木の葉が揺れる音や鳥の囀りが、街中にいるとは思えないほど穏やかだ。閑静な実家の庭を思い出し、懐かしくなる。

 のどかな陽気に誘われて、うとうととしてしまう。最近の寝不足のせいもあるのだろう。心地良さと睡魔に負けて、意識はゆっくりと闇に沈んでいった。




*****




 子供の声が聞こえる。声の方を見やれば、そこには三人の見覚えのある子供がいた。


『ショコラー、ぎゅー!』

『偉いわね、吹雪』

『白姫、散歩に行くか?』


 昔見た光景だ。小学生の私は縁側に座り、庭にいる彼らを見ている。

 妹の莉緒りおが小学生、姉の奈緒なおが中学生、そして兄の達央たつひさが高校生に上がった頃だろうか。莉緒は両腕で何かを抱きしめて、奈緒は右手で宙を撫でている。兄は何もいない空間を見て優しく笑っていた。


 私には見えない“犬神”を、彼らは見て、撫でて、抱きしめている。


 皆の楽しそうな光景は、時折私の中に疎外感と寂しさを生む。家族の中で私だけ見えていないのだと、実感するからだ。

 もやもやとした気持ちを誤魔化すように、いつも傍らにある白いしっぽを撫でていれば、莉緒が犬神を抱えたままぱたぱたと近寄ってきた。


『ねえ、お姉ちゃん。りおもゆっきーなでていい?ぎゅーってしていい?』

『え……』


 私はしっぽを撫でる手を止めた。

 いいよ、という言葉がなぜか出てこない。固まる私に気づくことなく、莉緒が言う。


『だって、かわいそうかなーって。ゆっきーも、あたまとか、せなかとか、なでてもらいたいよね?』


 きっと、莉緒にとっては何気ない一言だったのだろう。妹は自分の犬神だけでなく、姉や父の犬神と遊ぶのが好きで、しょっちゅう触ったり抱き着いたりしていたから。

 けれども、私はついに頷くことができなかった。そうしている間に、走って来た姉と兄が莉緒の首根っこを掴んで引っ張る。

 

『馬鹿!何言ってるの!』

『だ、だって、ゆっきー、さみしそうだもん…』

『ちょっ、おい!……ったく、莉緒こいつの言ったこと、気にするなよ』


 姉と兄が心配そうに見てくる。ああ、気を遣わせていると思うと同時に、胸に湧くのは罪悪感だ。姉達に気を遣わせてしまったから?……ううん、そうじゃない。

 そうじゃ、なくて。


 ざわり、と黒くて冷たい靄のようなものが胸の底から染み出して、足元の影を広げる。冷たい靄はやがて周囲を真っ黒に染めあげて、気づけば兄妹の姿は見えなくなっていた。

 暗く寒い中に一人だけ残された私の後ろで、からり、かさり、と何か小さな音がする。


『ねえ、お嬢さん。あなたも本当は解っているのでしょう?』


 どこかで聞いた響きに、耳を両手で強く塞ぐ。それでもなお、声は頭の中に響き渡る。


『“見えない”あなたの側にいて、犬神も寂しいことでしょう。可哀相だと思いませんか?……ねえ、白瀬の、お嬢さん』


 耳を塞ぎ目を閉じて、小さく縮こまる私の背後から何かが近づいてくる気配がする。

 やがて肩を誰かに掴まれて、身を固くして息を呑んだ。振り払うこともできずにいれば、肩を握る力はじわじわと強くなり、自分の身体がずぶりと地面へと沈んでいく。

 そのときだ。

 塞いだ耳の向こう側で、澄んだ遠吠えが聞こえたのは。

 強い風が吹き、はっと目を開ける。目の前には、雄々しく振り上げられた白いしっぽがあった。がうっ、と力強く吠える声に黒い靄は吹き飛ばされて、小さな羽虫の塊となって彼方へと去って行く。

 あっという間の出来事に呆然とする私の手の甲に、しっぽの柔らかな毛がさらりと触れる。私の身体は何か白く輝く、温かいものに囲まれていた。


『雪尾……』


 ここにいる。

 雪尾は、まだ、私の側にいてくれる。しっぽだけしか見えない私の側に。

 それはとても嬉しくて、幸せなことなのに。


 時折、ふっと罪悪感が湧く。


 見えない私が、犬神ゆきおの主であることに。


『……ごめんね』


 あなたに聞きたいことがあるのに。

 けれども、答えを知るのが怖くて、いつも聞けない。


『ごめんなさい……』


 両手で顔を覆う私の膝の上に、温かいものがぽすりと乗る。くぅん、と心配するような、甘えるような声がした。

 ああ、きっと雪尾が頭を乗せているのだと解るのに、それでもやっぱり見えなくて。触れようとする手は何も触れることも無く、すり抜けてしまうのだろうと解って。

 嬉しさと苦しさがない交ぜになった感情で、私は雪尾に触れようとした手を固く握る。


 その直後、ひしゅっと小さなくしゃみの音がして、私は目を覚ましたのだった。


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