57 白いしっぽと夢の虫(前編)
――あなただって、本当は解っているのでしょう?
耳の奥で、知らない男の声が響く。
受話器の向こうから届く声は、静かに語りかけてきた。
――だって、あなたは見えないのですから。
言葉は責めるというよりも、淡々と事実を指摘していた。
そう、彼の言葉は事実なのだ。
自分でさえも認める、本当の事だ。
見ることも、触れることも、抱きしめることもできない――『能力無し』。
受話器を握る手が小さく震える。
――可哀相だと、思わないのですか?
嫌だ。
聞きたくない。
答えたく、ない。
受話器を放り出して耳から離せばいいだけなのに、金縛りのように腕も頭も動かない。ただ強く握り締めることしかできない。
ざわ、ざわ、と耳の奥で何かが蠢いている。
入り込んだ声は、頭の中で羽虫のように五月蝿く鳴り響いて――
「っ…!」
はっと目を開けば、見えるのは自室の天井だった。カーテンから滲み出る光が、室内を薄く照らしている。
霞んだ視界でぼんやりと天井を見上げながら、無意識に布団の周りを手で探る。五秒も立たぬ内に、指先が柔らかな毛並みに触れた。いつもの感触と温かさに安堵して、ほうっと息を吐く。
……今日も、嫌な夢を見た。
ここ数日は寝つきが悪く、夢見も悪くて、眠れた感じがしない。
眠いのに、なんだか眠るのが怖いのだ。
気付けば手に力が入っていたようで、掌の中のしっぽがぴくんと跳ねる。しまった、起こしてしまったようだ。
手の中からしっぽが抜け出て、胸の上にぽすんと軽い重みがかかる。足元では、しっぽがぱたぱたと振られていた。
「……おはよう、雪尾」
そこにいるはずの見えない犬神の顔を――天井を見ながら、私は微笑んだ。
*****
嫌な夢を見るようになったきっかけは、三日前にかかってきた電話だ。
勤務先の図書館にかかってきたそれは、白瀬家の親戚だと名乗ったそうだ。
私が白瀬の家を出て、県外の図書館に勤めていることを知っている者は少ない。それに親戚関係のことであれば、本来なら兄ないしは父母から携帯電話の方に連絡が入るはずである。
少し警戒しながら保留中の電話に出れば、聞こえてきたのは知らない男性の声だった。
男性は、大神分家の一つ、下田代家の者だと丁寧に名乗ったが、聞き覚えはない。手短に終わらせようと何の用か尋ねると、意外そうな声が返ってきた。
『おや、お父様から聞かれていませんか?私とあなたの見合いの話について』
「え…?」
初耳だった。
見合い話など、父や兄からは何も聞いていない。いや、そもそも見合い話が自分に来るはずがない。
どういうことだろう、と不審に思いながらも口を開いた。
「申し訳ありませんが、私は聞いておりません。父に確認してから、再度ご連絡致しますので…」
『口を挟むようですが、あまりお父様やお兄様にご心労をかけるのはどうかと思いますよ』
「……どういうことでしょうか?」
『不躾に申し訳ありません。ですが、あなたも本当は解っているのではないですか?』
逆に聞き返されて、受話器を握る手に力が籠った。喉に何かを押し込められたかのように、ぐっと息が詰まる。
息苦しさに襲われ、答えを返せずにいれば、電話の声は淡々と言葉を続けた。
『だって、あなたは“見る”ことができないのですから。ご家族はあなたのことを庇ってはおられますが、体面が良いとは言えないでしょう』
口調は丁寧だが、あまりにもずけずけとした失礼な物言いだ。能力無し、と子供の頃に散々言われた記憶が蘇える。
反論するべきなのに、声が出ない。
『私が言うのも何ですが、見合いはいい話だと思っています。我が下田代家はもちろん、あなたの白瀬家のためにも。それに……いつまでも“見えない”主に仕えるのは、犬神も可哀相だと思いませんか?』
「……」
一方的な言葉に文句どころか言葉の一つも返せぬまま、「それでは、また後日」とあっさり電話を切られる。
終話の電子音が耳に届く中、ざわざわとした雑音はしばらく耳の中に残って、完全に消えることは無かった。
それ以来、電話越しの声は記憶から消えずに、度々夢に現れるようになった。指先に刺さって抜けない小さな棘のように、微かな、でも確かな痛みを与えてくる。
父や兄にも、見合いの件について問い質すことはできていない。早く連絡すべきだとわかっていても躊躇ってしまうのは、男に言われた言葉がしこりのように胸に留まっているからだ。自らの持つ負い目を他人から的確に指摘されたことが、思った以上にきつかった。
これ以上迷惑をかけるのは、だけどちゃんと話した方が、と葛藤しながら、結局通話ボタンを押せずにいる。
だから余計に胸のしこりは大きくなって、棘の痛みは鋭くなる。――悪循環だ。
「駄目だなぁ…」
自分でも、自分の心が弱っているのがわかる。しっかりしろと自分に言い聞かせる声も弱々しい。
ベッドの上に起きあがり小さく溜息を付くと、もふ、と顔に何か押し付けられた。
視界を埋めるのは白い色だ。白いしっぽがぐいぐいと強く顔に押し付けられている。
まるで慰められているような――いや、実際に慰めてくれているのだろう。雪尾の気遣いに、肉体的にも精神的にもくすぐったくなって、ふっと口元が緩む。
顔に当たるそれをわしゃわしゃと撫でて引き離し、私は明るい声を出した。
「今日はお昼過ぎで仕事終わるから、帰りにシリウスに寄ろっか」
白いしっぽは賛成と言うように、嬉しげにしっぽを振った。




