56 白い犬と夢見鳥
休日の午後、叔父の喫茶店『シリウス』は繁盛していた。
俺がバイトするようになってから、若い女性客が増えたと叔父さんは言っている。お客さんが増えるのはいいことだが、室内が満席になった時に白瀬さんがタイミング悪く訪れた。
開いたドアの外、今日も彼女の足元にはちょこんと(身体は大きいのだが、その表現が似合うような気がする)犬神の雪尾さんがいる。
「いらっしゃいませ。すみません、今、満席で……あ、でも、外のデッキは空いて……いや、寒いですよね」
三月も後半となって春めいてきたものの、やはり外の空気はまだ少し冷たい。
白瀬さんは「そうですか」と少し考えた後、雪尾さんの方を見やる。白いしっぽがぱったぱったと、ホットミルクへの期待に振られていた。
思わず白瀬さんと顔を見合わせて、吹き出してしまう。
「……じゃあ、外の席でお願いします。今日は陽射しが温かいし、外でも大丈夫ですよ」
「わかりました」
それじゃあと、玄関のデッキから回って、横の方にある日当たりのいい席に案内した。
注文はいつも通りなので、店内に戻って叔父に伝える。
冬場はこの店ではお冷と温かいお茶の両方を用意しているので、お茶の方をお盆に乗せ、そして厚手のブランケットを腕に掛けて外に出た。
「お茶です。それとよかったら、これ使って下さい」
「ありがとうございます」
白瀬さんは礼を言って受け取ると、膝の上に淡い水色のブランケットを広げる。足元に座った雪尾さんが上から降ってきたブランケットに驚いて耳をぴんと動かした。
雪尾さんはしげしげとブランケットを見やり、鼻先で突いたり、前脚でちょいちょいと触っている。可愛らしい仕草を見たいと名残惜しみつつも、俺は店内に戻った。
*****
「恵、ミルクティーとホットミルクできたよ」
「はーい」
お盆に注文のミルクティーとホットミルクを乗せて、俺は急いで、零さぬように気を付けながら外のデッキに出る。
お客が多いこともあり、注文してから出来上がるまで思ったよりも時間がかかってしまった。すでに十五分は経っている。すっかり待たせてしまって、二人とも寒がっていないだろうか。悪いことをした。
「お待たせしてすみません、ミルクティーとホットミルクで……」
言いかけた言葉が止まる。
デッキの椅子――背もたれに長さがあるロッキングチェアに似たデザインの椅子に、白瀬さんは凭れかかっていた。右に傾いた顔の部分は木の影に入り、肩から下には暖かな陽射しが降り注いでいる。ぽかぽかとした陽気はいかにも眠気を誘い、気持ちよさそうだ。
そして、ブランケットが掛かった彼女の膝の上には、目を閉じた犬の顔がでんと乗っていた。
白瀬さんの膝に両前足と顎を乗っけて、ふすー、と小さな寝息を立てるのは、紛れも無く雪尾さんだ。
「……」
どうしよう。今すっごく写真撮りたい。
可愛いカワイイ、何だこのふたり、と内心で悶えながらも、お盆を揺らすことの無いように、そしてふたりを起こさぬようにそっと近づく。
気配に敏い雪尾さんが起きないところを見ると、気を許してもらっているのか、それとも単に眠りが深いだけか。ふたり揃って、しっかり眠ってしまっている。一体何の夢を見ているのやら。
何にしても、眼福の光景だ。
しかし、見惚れている訳にもいかない。
眠るまで待たせてしまった事を申し訳なく思いながら、注文の品をテーブルに置く。冷めてしまう前に起こさなくては、と白瀬さんの肩に触れようとしたときだった。
ふわり、と何かが鼻先を掠めた。
「……っ、わ」
それは、ひらひらと羽を動かして、宙を舞うように降りる。
やや紫がかった青い四枚の翅が動く。
それは、一匹の蝶だった。
暖かな陽に誘われて、さっそく出てきたのだろう。
ゆらり、ひらり、と幻想的に揺らぎ飛ぶ様に、目が魅かれる。
幻か、現実か。夢か、現か。
ああ、そういえば、蝶に関する逸話があった気がする。胡蝶の夢だ。
昔の人は、たしか蝶のことを『夢虫』とか『夢見鳥』とか呼んでいたそうだ。
夢。
ふたりの夢と現の間を彷徨う蝶。
ぼんやりと考えていれば、蝶が辿り着いたのは、黒く濡れた雪尾さんの鼻先だった。
ひらり、と蝶の翅が空気を動かしたかと思えば――
ふしっ。
雪尾さんが、くしゃみをした。
その動きで、蝶は驚いたように飛びあがり、ひらひらと慌てたように飛び去っていく。しかし雪尾さんのくしゃみは止まらず、ふしゅっ、ひしゅっ、と何度か鼻を鳴らす。
「ぅん……?」
雪尾さんの動きで、白瀬さんが起きたようだ。焦点の定まらない目を何度か瞬きさせた後、俺に気づいて、ぱちっと目を見開いた。
「あっ、ご、ごめんなさいっ。私寝てしまって…!」
慌てる白瀬さんの膝が跳ねれば、雪尾さんの顎がずり落ちて床にごんと落ちる。きゅんっ、と鳴き声が聞こえて、白瀬さんは「え!?雪尾!」とますます慌ててしまう。
呆気に取られながらそれを見ていた俺は、やがて堪えきれずに笑い出してしまったのだった。




