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55 白い犬と老人と犬神使い(後編)


 初めは、神社の狛犬か何かが現世うつしよに形を取ったのかと思った。

 白く輝き神々しく見える姿は、まるで神社を守護する獣のそれである。しかし狛犬や獅子というよりは、柴犬に近い姿をしていた。大型犬よりもやや小さいくらいか。

 神社には神使しんしと呼ばれる、神の使いであり守護をする獣がいる。稲荷神の狐や、春日神の鹿、毘沙門天の虎などが有名だ。狼の神使というのも存在するようだが、確かここの神社は特別に神使はおらず、普通の狛犬と獅子だけのはずだ。

 周囲に行き過ぎる参拝客が誰一人として白い犬に目を向けないのは、犬が普通の人間に見えないからだろう。犬の霊にしては存在がはっきりとしていて、清浄な強い力を漂わせていた。


 頭の中を過ぎったのは、以前、孫が世話になったという白い犬神だ。

 無垢で穢れの無い、青い目の犬神。あの犬神よりは小柄であるものの、雰囲気が似通っている。


 白い犬が黒い影を鋭い牙で噛み砕けば、断末魔と共に影が霧散する。ぺろりと口の端を舌で舐める白い犬を呆然と見つめていると、石段をざりと鳴らす足音が聞こえた。


「こら、吹雪ふぶき。勝手に食べちゃ駄目だよ」


 傍から見れば、独り言のような呟きだろう。しかし、柔らかな声は確かに犬に向けて掛けられていた。

 振り返ると、石段を降りてきたのは若い男性だった。年は二十代後半といったところだろう。少し眦が下がった目と泣き黒子ぼくろが印象的な、繊細で綺麗な顔立ちをした優男という雰囲気だ。

 灰色のコートを着た男は、こちらを見て軽く一礼する。


「すみません、驚かせてしまったようで」

「いや……」


 首を横に振れば、男は革靴を鳴らして犬の方へと近づいた。しかし白い犬はふいっとそっぽを向いて、男から逃げるように離れてしまう。そして何を思ったか、ととっとこちらの方へと近寄ってきて、青い目で興味深そうに見上げてきた。柴犬よりは鼻面が長めで、凛々しい顔立ちをしている。シベリアンハスキーや狼のような容貌で、なかなかの美人さんだ。

 うむ、これはどうしたものか。

 じーっと見上げてくる犬の目を、袂で腕を組んだまま無言で見返せば、男が軽く肩を竦める。


「他の人間に興味を示すのは珍しいな。……ここで知り合ったのも何かの縁でしょう。お時間があれば、お茶でもいかがですか?」


 にこりと笑って言う後半の台詞は、若い女性なら喜んで承諾するのであろうが、自分は還暦をとうに過ぎた老爺だ。若い男の誘いに眉を顰めたいところではあったが、自分も彼に少し興味があった。


 白い犬神を従える、彼に。




*****




 参道沿いの茶屋に入って、緋毛氈が敷かれた長椅子に座った。古びたメニュー表を差し出しながら男は注文を尋ねてくる。


「僕は善哉ぜんざいにしようかな。貴方は?」

わしは甘酒を」

「わかりました。……すみません。善哉一つに、甘酒を二つ下さい」


 男は店員に、なぜか甘酒を二つ頼んだ。代金を払おうとする男を制して、自分が先に代金を払う。


「ここは儂に奢らせてくれんか。……先ほど、そのに助けられたのでな」

「では、お言葉に甘えて頂きます。こちらからお誘いしたのに、すみませんね」


 謝礼を言う男に、さっそく尋ねてみる。


「その犬は、お前さんの犬神か?」

「ええ」


 あっさりと答えが返ってきた。

 やはり男は犬神を使役する犬神筋の者なのだろう。白い犬神というのは珍しい。


「まあ、正確に言えば元々は妻のものですが……。それより、やはり犬神をご存知でしたか」

「まあな」

「ひょっとして、貴方も犬神筋の方ですか?」

「いいや」


 かつてはそうだったと聞くが、今は違う。初対面の誰とも知れぬ者にいちいち説明するわけにもいかない。否定したところで、注文していた甘酒と善哉が運ばれてくる。

 男はさっそく割り箸を割って、善哉の碗を取った。甘党なのか嬉しそうに碗に口をつける彼の方から、小豆の甘い香りが漂ってくる。

 自分も温かい甘酒に手を伸ばした。厚い陶器の湯呑に入れられた白い甘酒を口に運べば、ほんのり優しい甘さが広がる。独特の匂いが苦手だと孫は言っていたものだが、自分はこの麹の香りが好きだ。幼い時分を思い出す。

 そういえば、もう一つの甘酒はどうするのかと見やれば、男は甘酒の湯呑を自分の横、犬神の顔の近くに置く。

 犬神のしっぽが控えめながらも期待にぱたぱたと振られて、目の前に来た甘酒を見つめている。どうぞ、と男が許可を出せば、ちびちびと口をつけ始めた。猫舌(いや、この場合は犬舌と言った方がいいのか)なのか、時折あちっと目と鼻を顰めている様子は可愛らしい。

 牛乳好きの犬神を思い出しながら、その様子を見ていれば、男がくすくすと笑った。


「何故か甘酒が好きでしてね。家だと妻に注意されますから、こうして外出した時くらいしか飲めないんですよ」


 感謝しなよー吹雪、とわざとらしく言う男に、犬神は冷たい目線を向けたが、今は甘酒に集中することにしたらしい。男を無視して甘酒の器を口でくわえると、長椅子の下に潜り込んでしまった。

 甘い汁に浸かった白玉をぽいと口の中に放り込み、もぐもぐと飲み込んでから男は言う。


「やれやれ……主になって五年も経つのに、なかなか懐いてくれなくて。困ったものです」

「まあ、犬神さんにも思うところはあるんだろうよ」

「あはは、確かにそうですね。初対面の時に、君に興味は無いって言ったことをまだ根に持っているのかな」


 でも、と男は続ける。


「この犬神よりも強い犬神がいることを知ったら、そっちに興味が湧きますし、手に入れたいと思うのは普通でしょう。貴方もそう思いませんか?」


 ねぇ、と柔らかな笑みで同意を促してくる彼の目線は、鋭い。ただの人当たりの良い優男ではないことは、すでにわかっていた。

 

 おそらくは犬神筋でも力のある者。大神おおがみ本家か、それに連なる者だろう。

 そして白い犬神。喫茶店で出会った白瀬のお嬢さん――犬神を使役せずに側にいさせる娘と何らかの関わりがあるのかもしれない。彼の言う強い犬神は、あの娘が連れていた強い力を持つ白い犬神のことではないだろうか。

 ならば声を掛けてきたのも、何かしらの思惑があってのことか。

 自分が高階の者であることを知った上で、偶然を装って?

 もしかしたら、孫やあのお嬢さんに何かしようと企んでいるのでは――


 穿ち過ぎな考えだとは思うが、優男の只ならぬ気配に警戒心が湧く。甘酒を一口飲んだ後、小さく息を付いて男の目を見返した。


「強い力を手に入れたとしても、制御できねば意味が無かろう。己に見合わぬ過ぎた力は、己を滅ぼすだけだ」


 牽制も含めた答えに、男はわずかに目を瞠った後、冷ややかな笑みを口元に乗せた。


「そうですね。貴方も、自分に見合わぬものを祓おうとしていて、ちょっと危ない所でしたから」

「ああ、その通りだ。儂はこの歳になっても、己の力量を計り誤る未熟者に過ぎん。お前さんも気を付けなされ。まずはその犬神に好かれるようになった方がよかろうよ」

「……」


 嫌味を軽く受け取って流すと、男はぱちりと目を瞬かせた。やがて鋭かった目線を消して、くすりと笑いを零す。


「いやー、参ったな。さすが高階(おう)、噂通りの御仁ですね」

「大した噂じゃなかろう。元犬神筋というだけだ」

「いいえ。『白瀬』の始祖と繋がりを持つ『高階』は、犬神筋の一部では有名ですから。てっきり、めぐむ君を使って家の再興を狙っているのかと思いましたが、違うようですね。……お義兄さんの言う通りだったなぁ」


 最後の方は聞き取れなかったが、孫の名前が出てきたことで顔が強張った。厳つい顔を引き締めて、男を睨みやる。


「……孫に手を出すようなら、ただじゃおかんぞ」

「そんな怖い顔なさらないで下さい。別に手出しは――わっ」


 男の言葉が途中で途切れたのは、長椅子の下から出てきた犬神が男のコートの裾を噛んで強く引っ張ったからだ。鼻に皺を寄せて、ぐううっと喉を低く鳴らす様は、まるで男を叱るかのようだ。

 犬神の突然の割り込みに「吹雪きみまで怖い顔しなくても」と男は苦笑する。小さな牙の穴が空いたコートを見て、あーあ、と情けなく眉尻を下げた。


「……高階の者は白瀬の犬神に好かれるようですね。羨ましいことです」


 やれやれと溜息を付く男は、しかしどこか楽しげであった。空になった善哉の碗を置くと、男は立ち上がる。


「高階翁、付き合って頂きありがとうございました。そろそろ行きます」

「……ああ」

「安心してください、お孫さんには手を出しません。約束します。……まあ、僕個人としては他の家に手を出されるより、高階が再興する方が扱いやすそうで良かったんですが」

「儂らをお前さんの都合に巻き込むでないわ」

「その通りですね。すみません」


 男は素直に謝罪すると、コートのポケットから名刺入れを取り出した。


「お詫びと言っては何ですが、今後犬神筋と関わって何か問題があれば、僕の名前を出して下さい。けっこう効きますよ」

「……ふむ」


 差し出された名刺には、『大神夏貴おおがみ なつき』と書かれている。やはり大神本家の者であったか。

 無論、この名刺を使う気はさらさら無いが、突き返すのも礼に反する。受け取ってすぐに袂に放り込めば、男はからからと笑った。

 それでは、と一礼した男が背を向けて去って行く。すると、男の後ろに付いていた犬神が、くるりと振り返った。

 犬神は青い目でこちらを見つめると、静かに目を伏せて軽く頭を下げる。


『――甘酒、ありがとうございました』


 さあっと木々を揺らす風の中、涼やかな若い女性の声が耳に届いた気がした。

 思わず目を瞠る中、犬神は白い尾を揺らしながら男の後を追いかけていく。鳥居をくぐった一人と一匹の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。


「……」


 なるほど。

 犬神は若いお嬢さんだったか。


 初めて聞いた犬神の声に驚きながらも、どこか納得したのであった。



 おまけ小話「その後の夏貴と吹雪」



 神社の駐車場に向かう最中、吹雪が素っ気なく言った。


『先ほどの件、奈緒様にきちんと報告しますから』

「ええっ、それはちょっと待ってよ、吹雪。僕が奈緒に叱られる」

『存分に叱られて下さいませ。高階の者に手は出すなと達央様が仰っていたのに、約束を破ったのですから』

「仕方ないだろ?僕は大神本家の代表として確認を…」


 言い繕っても、吹雪は取りつく島も無い。


『何かあれば些事でも報告をと、奈緒様からのご命令でもあります』

「あのさ、吹雪。今は、君は僕の犬神で……」

わたくしの主は奈緒様。奈緒様のご命令により、貴方に仕えているだけです』

「……ったく、相変わらず白瀬の犬神は……特におんなは面倒臭い…」

『何か仰いましたか』

「いーえ、何にも」


 はあ、と溜息を付いて、もう一度駄目押しで頼んでみる。


「ほら、甘酒奢ってあげただろう?それでナシってことに――」

『奢って下さったのは高階様です。貴方ではありません』

「……」


 ――結局、家に帰ってから、妻である奈緒の説教をくらうことになったのは言うまでも無く。

 意趣返しにと、吹雪が甘酒を飲んだことを告げ口してみれば、吹雪と一緒に余計に説教をくらう羽目になったのであった。


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