閑話 白い月に吠える
「白い犬神と青い切子」のその後のお話です。
……やれ、寝おったか。
先ほどからやけに静かだと思ったら、若き主は椅子の背もたれに寄り掛かって寝息を立てていた。
まあ、それも仕方のないことか。
ここしばらく、 今日の予定を空けるためにスケジュールの調整とやらで仕事漬けの日々を送ってきたのを、傍らで見ている。疲れた身体に酒を摂取すれば、眠気もくるというものだ。見れば、テーブルに置かれた透明の瓶の中身はほとんど残っていない。いつになく杯が進み、我も半分は飲んだであろうか。
グラスに残った酒を呷り、長い息を吐く。
我もまた、酒を飲んで妙に高揚した気分になっている。機嫌が良い、というのだろうか。いつもなら、椅子でうたた寝などしていたら叩き起こしてやるところだが、今夜はしばし様子をみてやるとしよう。
ゆったりと組んだ前脚に顎を乗せて、主である達央の顔を見上げる。
こやつが我の主となって、まだ二年と経っていない。白瀬の次期当主として、周囲の輩からは評価されているようだが、我に言わせればまだまだひよっ子だ。
もっとも、現当主の勝央も、我にとっては若造である。先代の義達は、まあまあ話せる相手にはなってきたが。
二百年近く生きていると様々な人間や犬神に出会うものだが、今の代の白瀬家はなかなかに面白い。先代夫婦に、現当主夫婦、それに達央と三姉妹。多少の諍いはあれど、仲の良い家族だ。
つくづく思うのが、白瀬の犬神は主に似るということだ。
吹雪は、長女に似て生真面目で優秀だが、少々堅物の衒いがある。
しょこら……いや、待雪は、三女に似て茶目っ気があるが、要領の良いしっかり者だ。
そして雪尾は――
あやつは一番の寂しがり屋であったな、と思い返す。
力の制御ができぬ幼い身体で、主である次女の後ろをいつも付いて回っていた。
主に見てもらえない寂しさからか、きゅんきゅん鳴いてうるさいので、見かねて面倒を見てやったものだ。
しょげる雪尾の首根っこを噛み、ぽーんと上に放り投げてやれば、きょとんと目を丸くした後に、もう一回と興奮したように尻尾を振っていた。
遊んでとせがんでくるときには、白い尾を猫じゃらし代わりに動かしてやれば、飽きもせずに追いかけて、しまいには自分の尻尾を追いかけてくるくるとその場を回っていた。
遊び疲れたときには、白い腹の横に潜り込んできて、ぷすーといつの間にか寝息を立てていた。
構ってやれば懐いてくる。懐いてくれば可愛くなってくる。次第に愛情も湧くというものだ。
同胞である雪尾に、まるで姉か母のような心持ちになっていた。
そんな寂しがり屋の雪尾と、次女の“目無し”の娘は、よく似ている。
あの娘も、寂しがり屋であった。犬神が見えないことで家族との違いを知り、縁側でよく一人で膝を抱えていた。雪尾の尻尾が見えるようになってからも、家族に遠慮している風が見て取れた。人に気を遣って、自分のことはさておくような、少し臆病で心根の優しい娘だ。
雪尾も娘も、寂しがり屋な似たもの同士、今も仲良く過ごしているようではあるが――
そこまで思い返して、ふっと小さく笑いを零す。
何を感傷的になっているのやらと己を叱咤しながらも、連鎖して思い出すのは己の主のことだ。
『貴女の名は、白姫よ』
気高く美しく、穢れることなき犬神の姫。
雪姫にするか、迷ったのだけれども。
そう微笑んで、床から伸ばした細い手で我の頭を撫でてくれた、最初の主。
生まれつき身体が弱かった彼女は、二十の歳を迎える前に息を引き取った。
『名前しかあげられなくて、ごめんなさい』
もっと一緒にいたかった。生きていたかった。
我の頭に触れる手から伝わってくる悲しい思いは、優しい微笑みに隠されて、ついぞ他の者に知れることは無かった。あの娘もまた、優しい娘であったのだ。
主との別れは辛かったが、それを機に白瀬の筆頭犬神に入ることになった。
そして、達央や雪尾たちと出会うことになり、縁というものの深さを知ることになる。
『寂しいか?』
先ほど達央に尋ねられて、どきりとしたものだ。
犬神にそのようなことを尋ねる主など初めてであったし、何より心の奥底に沈んでいた、自分でもはっきりとしていなかった思いを見透かされたようで驚いた。
魂の片割れである主と早々に別れることになった己と、主に気づいてもらえない雪尾。
寂しいもの同士というのは、我と雪尾もそうであったのかもしれぬ、と今頃気づいた。
その場は澄まして躱したものの、してやられたと達央の寝顔を軽く睨んでやる。
「まったく……青二才が、生意気を言うようになりおって」
八つ当たりで独りごちる呟きは静かな部屋に少し響いて、達央の寝息に取って代わった。
一向に起きる気配の無い主の姿をしばし睨んでみたが、飽きてのっそりと身を起こす。酒の入った身を醒まそうと、窓の外へと躍り出た。
とっとっと軽やかに瓦屋根を駆け上がり、高い所まで登れば、山裾から広がる街並みが見下ろせる。
夜半の街を一瞥した後、我は白い月を見上げた。
すう、と息を吸い、肺に溜まった空気を吐き出しながら、吠える。
遠く、高く、物悲しく、響く遠吠え。
冷たい空気を揺らしたそれは、誰に向けたものだったのか。
己でも解らぬまま、二度、三度と、空気を震わせた。
ふと、耳に別の遠吠えが聞こえた気がした。
山彦か。それとも――
試しにもう一度吠えてみれば、聞き覚えのある遠吠えが帰ってきて。
誰にも知れることなく、我はひそりと白い月の下で微笑んだ。
――おおーん…
遠吠えが、聞こえる。
物悲しいその声に目を覚ませば、すぐ隣で丸まっていたはずの白いしっぽがないことに気づいた。
「……雪尾…?」
身を起こして、窓に引かれたカーテンを見やった。
月光が入り込むカーテンには、大きな犬の影が映っている。ベッドから降りてベランダに出れば、案の定、白いしっぽがベランダの手すりの上で垂れていた。
「どうしたの?」
白い息を吐き出しながら、尋ねる。
「……寂しいの?」
尋ねた声に、白いしっぽは少しだけ揺れて、また垂れた。
「……そっか」
雪尾の隣に寄り添うように並べば、白いしっぽがそっと手に触れてくる。
しっぽを優しく撫でながら、私は白い月を見上げた。
――おおーん…。
遠くで誰かが泣いているような。悲しいけれども、優しい遠吠えが聞こえたような気がして、私はそっと目を閉じた。




