閑話 白いしっぽはお年頃
44話の後日談です。
冷蔵庫の扉のポケットに、750mL入りの牛乳瓶が並んでいる。
先日、兄から送られてきた高級牛乳は大変美味であった。雪尾はすっかり気に入って、朝晩といつもより多くの量をたいらげて、私もミルクティーを淹れたりして、ようやく三本を飲み終わったところである。
だがしかし。
まだ残り、七本ある。
……なんで一人暮らし(+犬神一匹)の妹に牛乳十本(計7.5リットル)も送ろうと思ったの、兄さん。
嬉しいけれども、有難いけれども、もう少し量を考えてもらいたかった、と思ってしまう。
「……飲み切れるかな」
賞味期限まで残り一週間はあるのだが、全部飲みきれる自信が無い。いや、雪尾は自身満々なようで、今も冷蔵庫を覗いては、ずらりと並ぶ牛乳にご満悦でしっぽを振っていた。飲み過ぎはお腹壊すよ、と苦笑する。
職場でお裾分けしようかと考えるが、瓶を抱えて持って行くのも大変なので一本か二本といったところか。それでも五本以上は残ってしまう。
他にお裾分けは、と考えたところで、私の頭に一人の青年の顔が浮かんだ。
「……」
少し迷った後、携帯で交換していたメールアドレスで連絡を取れば、すぐに彼から返事が返ってきた。
「取りに行きます」と書かれていたので、慌てて「持って行きます」と文を打ってから準備をする。保冷バッグに保冷剤、牛乳瓶を二本、それに焼き菓子も少し入れて、ぱたぱたとアパートを出る。
足元では雪尾がほんの少し不服そうに、しっぽでぱしりと私の脚を叩いたのだった。
*****
「わざわざありがとうございます」
喫茶店シリウスに入る路地の前で、高階君は待っていた。今日はバイトに入っていないらしく、白シャツに黒エプロンではなくてラフな私服姿だった。
……よかった。元気そうだ。
いつも通りの笑顔の彼に、私は内心ほっとする。
牛乳を彼にお裾分けしようと思ったのは、先日の晩、元気が無かった高階君の様子を見たかったという理由もあったのだ。
「いいえ。こっちこそ、急に連絡してすみませんでした」
保冷バッグを差し出せば、受け取った高階君はその重さに少し驚いたようだ。このまま帰ろうと思っていたのだが、店に寄って行きませんかと誘われた。路地を一緒に歩きながら、高階君は感心したように尋ねてくる。
「何だか高そうな牛乳ですね。二本も貰っていいんですか?」
「貰ってくれると助かります。まだ冷蔵庫に五本もあって」
「……それはすごいですね。実家から送ってきたんでしたっけ?」
「はい。兄から急に送ってきたんです。ホワイトデーのお返しってわけでもなさそうだし」
苦笑して答えると、高階君の脚の速度が遅くなった。
保冷バッグを見下ろす彼の目が少し揺れた後、ふっと細められる。口元に浮かぶのは、どこか躊躇いがちな笑みだ。嬉しそうな、申し訳なさそうな。そんな曖昧な色合いの微笑みに、私は首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「……いや。いいお兄さんだなって思って。白瀬さんと雪尾さんのために、送ってくれたんですね」
そんなことをさらりと言われて、気恥ずかしくなった。
少し過保護なところもあるけれども、しっかり者で自慢の兄だ。真正面から褒められて、照れくさくもあるが、嬉しい。
「あ、ありがとうございます」
そう返せば、高階君も照れ臭そうにはにかんだのだった。
*****
結局、店でミルクティーとホットミルクを高階君が奢ってくれた。牛乳のお礼ですと叔父も言っているので、と押し切られたのだ。
再度礼を言ってから、店の前で空になった保冷バッグを受け取って帰ろうとしたときだった。
「……あれ?」
高階君が、私の足元を見ながら首を傾げた。
まじまじと見つめる彼の視線に、足元の白いしっぽがそわそわと揺れる。何事だろうと思っていれば、高階君が口を開いた。
「……雪尾さん、少し丸くなりました?」
「え?」
私の言葉と同時に、白いしっぽがぴゃっと跳ねて硬直する。
「あ、いや、お腹が何だか前よりも、その……こう……」
高階君が指先で遠慮がちに弧を描く。
彼の指の動きに沿って宙を見た後、私も足元を見下ろす。
もっとも、見えるのはしっぽだけではあるのだが。
お腹が、丸く。
「……雪尾」
もしかして、太った?
確かに、短期間であれだけ牛乳を飲んでいれば可能性は十分ある。犬神も太るのかと驚く私の視線に、雪尾のしっぽがぶんぶんと否定するように揺れていたが、やがて自信を失ったようにしおしおと垂れていく。
「うわ、すみませんっ、雪尾さん。悪気があったわけじゃなくて、その、丸くなってもかわいいなって!」
高階君が慌ててフォローを入れるが、それがとどめになってしまったようだ。
ふるふると白いしっぽが震えるのを見て、ますます焦る高階君。
そんな二人を見て。いつもの二人を見て。
不謹慎だとは思いながらも、私は笑みを零してしまった。
その帰り道、散歩がてらによった公園の池の水上を、雪尾はいつもよりも長く走っていたのだった。




