46 白い犬神と青い切子(中編)
妹が塞ぎこむようになって、数日経ったある日の事だった。
『あの子の犬神を、白瀬の筆頭犬神に入れないか』
そう提案したのは、一年前に父へと当主を譲った祖父だ。
祖父と祖母、父と母、そして次期当主である長男の俺が集まった座敷には、沈黙が広がる。困惑して顔を見合わせるのは穏やかな祖母とおっとりした母で、冷静な父はわずかに眉を顰めた。
あの子――というのは、もちろん妹の事だ。
『このままでは、あの子のためにも犬神のためにもならん。……まだ幼すぎるが、十分な力を持つ犬神だ。いずれは筆頭犬神にふさわしい犬神になろう』
『……あの子は、どうするんですか?』
『こればかりは仕方ない。犬神に力を喰われた者については、前にも話した通りだ。……犬神との縁を切ってしまわねば、あの子は他の家に利用されかねん。そうなる前に、犬神を離した方がいいだろう』
父の問いかけに、祖父は淡々と返した。
祖父の言いたいことは、何となくわかる。犬神と力を喰われた主、そして生まれる新たな犬神の『魂』についての話は、俺も聞いていた。
このまま妹がどこぞの家に嫁ぎ、白瀬と同等の力を持つ犬神を誕生させれば
、白瀬の家の地盤を揺るがしかねない。山犬を祖とする特殊な犬神の一族である白瀬家は、犬神筋の中でも優遇されている。希少と言う価値が薄まれば、白瀬の家も困るという訳だ。実際、この情報をどこから手に入れたのかはわからないが、大神本家の遠縁の者がさっそく妹に婚約話を持ち掛けてきたそうだ。
祖父は、妹のためだけを思っているわけではない。
家のためを思って言っているのだ。
俺にそれが分かったくらいだから、父にも、もちろん祖母や母にも分かったのだろう。
ずっと家を守ってきた前当主の言葉に、父は否とは答えない。父もまた、家を守らなくてはならない当主であるからだろうが――それ以上に、今のあのふたりの姿を見てはいられないのだろう。
塞ぎこんで、笑うことが少なくなった幼い妹。
その足元にいつも心配そうに、淋しそうに寄り添う小さな犬神。
見えないままであるなら、気付かないままであるなら。
もう、このまま離れさせた方がいいんじゃないか――。そう、思ってしまうくらいに。
普段は表情を崩すことの無い父が苦渋の色を見せ、静かに目を伏せた後、頷いた。
『……わかりました』
『父さん!』
思わず俺が非難の声を発せば、母の手が宥めるように俺の肩に置かれた。そっと唇を噛む母は、決定権を持つ父の方を真剣に見つめている。
父は一同をゆっくり見まわした後、口を開いた。
『ただし、この件はあの子自身に決めてもらいます。私から話をして、あの子が小学校に上がる前に……次の春までに決めてもらいましょう』
『……それでいいだろう』
父の答えに、祖父は了承する。俺は居ても立ってもいられなくなって、座敷から飛び出した。
廊下を走っていつもの縁側を目指せば、案の定、妹と犬神の姿がある。大きな声で呼びかければ、俯いていた妹が驚いたように振り向いた。
『……お兄ちゃん?』
目を瞬かせて見上げてくる妹に、俺は勢いのままに口走った。
『お前、このままだと犬神と引き離されるぞ』
『……』
『なあ、そんなの嫌だろ?だったら…』
『……見えないのに?』
『っ!』
『嫌だとか、そういうの、わからないよ。だって……私には、みんなみたいに見えないんだもの』
拒絶するように俺から視線を外して、顔を逸らす妹の目が伏せられる。
こちらを見ようとしない妹の目に、なぜか悔しく、悲しくなる。
いつからこんな風になった。
見える、見えない――。たった、それだけの違いのせいで。
いつの間にか大きな壁ができてしまって、それを崩すことができない。何を言っても妹を傷つけてしまいそうで、怖いのだ。自分の力の無さ――いや、勇気の無さが、悔しい。
ふと視線を感じて足元を見やれば、犬神がぐるると喉の奥で鳴いて、白いしっぽを高く上げて、俺の方を威嚇するように見上げてくる。まるで、妹を傷つけるものを許さぬと言わんばかりに。
小さな身体でも、それは立派に、妹を守ろうとしていた。
それを見た俺は、身体の横に力なく落としていた両の拳を強く握る。
『……犬神はさ。お前のこと、大好きなんだよ』
『……』
『いつも、いつも側にいて、お前のこと、心配してる。今も隣で、お前のこと守ってるよ。……見えないだろうけど、それだけは信じてくれ』
俺が言うと、目を伏せていた妹がふっと自分の隣を見る。何もいない空間に目線を彷徨わせて戸惑い、やがて諦めたように再び目線を落とす妹に、俺はこれ以上かける言葉を思い付かなかった。
その後、追いついてきた父にぽかりと一発拳骨を食らって追い返されたため、詳しくは聞けなかったが、父は妹に話をしたそうだ。
『能力無し』になってしまった理由は伏せて、妹の犬神を白瀬の筆頭犬神として契約することを考えているということと、春までに自身で決めるようにということだけを伝えたらしい。
妹がどんな決断をするのか。
時折、足元に探すような目線を彷徨わせるようになった妹の姿を見守ることしかできないまま、刻々と時間は過ぎていったのだった。
*****
転機が訪れたのは、冬の寒い早朝のことだった。
ばたばたと誰かが廊下を駆けている。
こんな朝っぱらからやかましい、と寝返りを打って毛布に顔を埋めた矢先、俺は何らかの気配を感じ取った。ふっと目を開けば――
「――ごふっ!」
身体の上に、重いものがどすっと落ちてきた。
布団越しに腹に響いた衝撃に一気に覚醒して、飛び起きた俺の目に映ったのは、白い狼のような犬神の顔だった。
さっきの衝撃は、この犬神がジャンピングダイブしてきたせいであろう。青い目をキラキラとさせて、興味津々といった態で俺の顔を覗きこんでくる犬神は、俺の腹の上にちょんとお座りしていた。
顔立ちや気配からして妹の犬神なのだとはわかるのだが、何だか前よりも一回り以上大きくなっている気がする。子供の狼くらいのサイズだったのが、今では若い狼のようにしなやかな身体つきだ。顔もあどけなさを残しながら、凛々しくなっているように見えた。成長した犬神の姿に驚き、寝起きの目を瞬かせる。
「お前、どうして……」
「お兄ちゃん!」
「へ?何――ごふっ!」
たんっ、と勢いよく障子をあける音がしたかと思えば、犬神の後ろから妹が助走をつけて飛び、同じようにダイブしてきた。
六歳の小さい子供と言えど、その重量と衝撃はなかなかのもの。受け止めるのが大人ならまだしも、当時の俺は若干十二歳の子供である。
どーんと押し倒されて布団の中で悶絶する俺に構うことなく、姉妹の中で一番大人しいはずの妹は、いつになく興奮した様子で捲し立てる。
「お兄ちゃん、見えたよ!」
「…え?」
「犬神!私の犬神、見えたの!」
俺はしばし言葉を失った後、鸚鵡返しで尋ねる。
「……見えた、のか?」
「うん!お兄ちゃんの言う通りだった!足音がしてね、私の周りに大きな足跡ができて!」
「……」
「あ……でもね、えと、まだしっぽだけしか見えないんだけど、でも、でもねっ、ちゃんといるんだよ。あっ、外に雪積もっててね、足跡がたくさんあるの!ねえ、一緒に見に行こう!」
楽しそうに、妹がはしゃぐ。
嬉しそうに、犬神の尻尾が振られる。
「……そっか」
よかった。
本当に、よかった。
目頭が熱くなるのを堪えて、「よかったな」と言えば、妹も「うん!」と笑顔で大きく頷いた。
それを見て笑い返しつつ、俺は腹の上に乗っかったままの妹と犬神に頼む。
「……とりあえず、まずは上からどいてくれ」
その後、奈緒と莉緒にも奇襲をかけ(さすがにダイビングアタックは止めさせたが)、兄妹四人と犬神三匹が揃って朝から庭ではしゃぎまくり、寝巻を雪でどろどろに汚して母と祖母に叱られた挙句、全員風邪をひいて寝込み、枕元を犬神達がおろおろと動き回るという結果になったものだが――今では忘れ難い、楽しい思い出の一つである。




