45 白い犬神と青い切子(前編)
繊細な模様が刻まれた切子の青いグラスに注ぐのは、透明な日本酒だ。
芳醇な香りと微かなアルコールの香りに、部屋の隅で伏せて目を閉じていた白い大きな犬神の鼻がひくりと動いた。
うっすらと開かれる目は、灯りを暗くした室内で青白く光り、まるで海に浮かぶ不知火のようだ。
妹が住む町から少し離れた山間にある旅館に泊まり、一風呂浴びて備え付けの浴衣に着替えた俺は、グラスを掲げて中の氷を揺らした。からん、と冷たい音に、眦の吊り上った青い目ははっきり開かれて、三角の耳がぴくりと揺れる。
「白姫、飲むか?」
グラスをテーブルの端に置けば、白姫はゆったりと起き上って近づいてくる。大きな口で小さなグラスの縁を器用に挟んだかと思えば、くいっと呷る様にグラスを傾けた。
ことん、と音を立ててテーブルに戻されたグラスの中には氷しか残っておらず、中の酒はすっかり飲み干されていた。相変わらず器用に飲むものだ。
白姫はグラスを鼻先でこちらに押しやる。澄ました青い目線は、当たり前のようにお代わりを所望していた。
お代わりを注げば、白姫はグラスの縁を口で挟んで、今度は呷らずに床へと置いた。そして舌でちびちびと甞めはじめる。どうやらこの酒が気に入ったようである。
俺も自分のグラスに日本酒を注ぎ、少しずつ口をつける。熟した果実のような香りで、やや辛口のあっさりとした味の中にほんのりと柔らかさがある。
後口の良さに杯を重ねていれば、気が解れ、知らずうちに大きく溜息が零れた。
『なんぞ』
「……いや。奈緒に見られたら、叱られそうだなと思って」
頭の中に響いてくる白姫の声に答えれば、くつくつと笑い声が返ってくる
『お主ら兄妹の中でも、あれが一番真面目だからの』
雪尾やショコラ…ではなく待雪が、牛乳やチョコを好んで飲食しようとすると、犬神らしくしなさいっ、と叱っていたものだ。
そんなしっかり者で真面目な長女の奈緒が、白瀬家筆頭犬神の一匹である白姫も日本酒を嗜むと知ったら、どんな顔をするだろうか。いや、案外、奈緒の犬神である吹雪にも、何かしら嗜好品があるかもしれないが。
本来、犬神は飲食をする必要はないのだが、白瀬の犬神は元々山犬だったこともあり、自我を強く持って好き嫌いがある。ただ命令を聞くだけの式神ではなく、時に反発し、時に語らうことができる稀有なもの達だ。
俺もまた、こうした一人の夜に時折、白姫と語らうことがある。何でもないことをつらつらと話し、まるで人を相手にするように酒を飲む。
聞けば、現当主の父も、前当主の祖父も、犬神相手に晩酌を行っているようだ。ちなみに筆頭犬神で最も古株の銀司は焼酎好きで、若手の氷雨は麦酒を好むらしい。
酒好きの犬神達が揃ったものだ、と切子のグラスを傾ける。
それにひきかえ、と思考は妹の犬神へと飛ぶ。今日会わずに帰った、雪尾のことだ。
牛乳が好きという雪尾は、まるで幼い子供のようだ。
好みも、性格も、態度も。昔からほとんど変わらない。
無垢な魂を持つ、稀な犬神である――
*****
初めて雪尾を見たのは、母が三人目の子供の出産を終えた後のことだ。
白瀬家の侍医と産婆が付き添いの元、無事に赤ん坊の産声が響く中、俺と奈緒は部屋の外から中を覗いていた。勿論、生まれてきた妹を見るためだ。
母に抱かれた小さな赤ん坊を見てはしゃぐ俺と奈緒が次に見つけたのは、布団の上で丸まった白い塊だった。
淡い輝きを持つそれは、三角の耳に尖った鼻先をしており、まるで子狼のようにも見える白い子犬だ。
あれが妹の犬神なのだと、すぐにわかった。
まだ子犬であるがしっかりとした体格をしており、一目で力が強い犬神だと知れる。母の周りにいた大人達も、妹と強い犬神の誕生に喜んでいたものだ。
子犬は起き上がり、よたよたしながらも母に抱かれた妹へと近づいた。
母はそっと胸元から妹を離す。生まれたばかりの妹の手を取り、母が子犬へと触れさせようとしたときだった。
妹の手は、子犬の頭をすり抜けた。
途端、大人達が戸惑ったようにどよめく。
それが何を意味するのかを知ったのは、それから数年後。
妹は、雪尾を見ることができなかったのだ。
雪尾どころか、白瀬家の犬神も、霊の類もほとんど見ることができない。
見ることができなければ、犬神の存在を知ることはできない。当然、触れることもできない。
それなのに、雪尾は妹の後をちょこちょこと付いて回った。
歩く足元に寄り添おうとしてはすり抜けて転び、座っている膝に飛び乗ろうとしては床にひっくり返る。
それでもめげずに何度も妹に体当たりを繰り返し、ついには尻尾をぺしょりと下げて、きゅうんきゅうんと悲しそうに鳴きだしてしまう姿は、可愛くもあり可哀相でもあった。
思わず手を差し伸べようとした俺や奈緒を止めたのは、祖母だ。
『あれは、あの子の犬神さんやけん。勝手に触ったらいかんとよ』
主人以外の人間が触れれば、そちらに情が移ってしまう。
そうすれば、主人が誰だか分からなくなった犬神は、あの子の犬神で無くなってしまう。
そう言って、祖母は寂しそうに目を伏せた。
――今でも、思い出す光景がある。
親戚から憐れむように見られ、ひそひそと陰口を叩かれ、直接は言われなくとも肌で感じ取っていた妹。
その後に生まれたもう一人の妹の莉緒から『みえないの?』と問われて、ようやく周囲との違いに気づいた妹は、俺達家族にも心を閉ざしてしまった。
誰もいない縁側に、膝を抱えてぽつりと座る妹の姿。
そんな妹を青い目で見上げて、そっと寄り添おうとする子犬の姿。
ふたりの輪郭は少しだけ重なり、決して触れ合うことは無かった。




