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43 白い犬と眼鏡の彼女と、いつかの話

 テーブルの上に置きっぱなしだったカフェラテを手に取れば、すっかり冷えきっていた。

 一口飲むと、冷えたことで際立った甘さと苦さが口の中に広がる。美味しいとは思えなかったが、乾いた咽喉に滲みわたる感覚に、ほうっと息が零れた。

 まるで溜息のような一息を、気に留める者はいない。

 目の前に座っていた彼女の兄はすでに席を立っており、店を去っていたからだ。




*****




 白瀬の家のことや犬神のことを話し終えたお兄さんは、肘掛けに置いていたコートを手に取った。


「さて、話も終わったし、そろそろ帰るよ」

「えっ……白瀬さんに会っていかないんですか?もうすぐ来るはずですから」

「いや。今日は妹に内緒で来たからな。会わずに帰るよ」


 あっさりと帰ろうとする彼を慌てて止めれば、苦笑が返ってくる。


「それに……少々気まずいんだ。さっき、あの子と雪尾のことを悪く言ってしまっただろう。今はちょっと、会わせる顔がないというか」

「……」


 凛々しく端正な顔に浮かぶ寂しげな色に、咄嗟に掛ける言葉が出てこない。彼の事情を何も知らずに「白瀬さん達が傷つくことを言わないでくれ」と非難してしまった分、余計に。

 唇を引き結んで目線を落とす俺の頭に、ぽん、と軽く何かが触れる。


「……君がそんな顔をすることは無いよ」


 手を伸ばしたお兄さんが、大きな手で俺の頭を軽く叩いた。


「守るためとは言え、妹の悪口を言っても平気になっていた自分が、少し嫌だっただけだ。悪いことに慣れてしまうと、心は鈍るものだな。君が言ってくれて、よかった」

「……だけど、あなただって、傷ついていたでしょう?」


 だから、俺が非難したときに、彼は驚いて、寂しそうに笑ったのだ。

 ふたりのために怒ってくれてありがとう、と礼を言ったのだ。

 白瀬さん達を犬神筋の欲深い者達から守るため、悪役に徹する中で、彼の心も少なからず傷ついていたのだろうと思う。ふたりのことを大切に思うお兄さんが、ふたりを貶す言葉を言うことは、決して慣れるものじゃない。


 見上げれば、お兄さんは静かに目を瞬かせて、やがてふっと笑みを零した。


「……そうだな」


 お兄さんはぽつりと呟いた後、俺の頭から手を離した。

 愁いを帯びた表情はいつの間にか消えており、彼の唇の端がにやりと上がる。


「今度からは別の方法で妹の見合いを断るとしよう。差し当たっては『妹にはすでに相思相愛の相手がおりますので』ということにしておこうか。そうだろ、高階君?」

「っ、なっ、そ…!?」

「あれ?だってそのプレゼント、あの子へあげるんだろう?」


 お兄さんが指差す先には、鞄と一緒に置いていた紙袋がある。

 まあ確かに、白瀬さんへ渡すホワイトデーのお返しのプレゼントが入っているが。


「いやっ、これは、その、日頃の感謝の気持ちというかっ…」

「あはは、そこまで照れなくていいのに」

「し、白瀬さんっ!」

「その『白瀬』は俺のことかな?ああ、そういえば、何で君は妹の事を名前で呼ばないんだい?」

「…そ、れは…………ま、まだ、名前を呼んでいいか、許可を、もらってないので……」


 お兄さんのからかいの言葉に律儀に返す自分も自分だとは思うが。しどろもどろになって答えれば、お兄さんはきょとんと眼を見開いた後、ぶはっと盛大に吹き出した。


「あ、あはははっ!…君、案外奥手なんだなあ」

「~~っ」


 真っ赤になる俺に、お兄さんは「あー、ごめんよ、笑ってしまって」と笑いながら謝った。

 側で黙って見ていた白姫さんがぱしりと彼の足を叩いて窘める。


『その辺にしておき。……そろそろあの仔らが来るであろうが』

「ああ、わかった。……雪尾に会わせてやれないが、我慢してくれよ」

『別に会えんでもよい。あのは未だにべたべたと甘えてくるからのう。鬱陶しくて敵わんわ』


 つんと澄ました白姫に、お兄さんはやれやれと肩を竦める。

 そして俺を見て、最初に会ったときのように涼しげな微笑みを浮かべた。


「じゃあ、高階君。今日は話を聞いてくれて、本当にありがとう」

「…いいえ。俺の方こそ、いろいろ聞かせてもらって、ありがとうございました」

「何かあったら、遠慮なく連絡してくれ。相談に乗るし、力になろう」

「はい。ありがとうございます」


 連絡先の書かれた名刺を受取って一礼すれば、お兄さんは軽く手を振って店の出口へと歩を進める。白姫さんも後を付いて行こうとしたが、その折に俺の手に鼻先を寄せた。


『…高階の子よ。そなたには重い荷を背負わせてしまったな』

「そんなことは…」

『秘密を抱えることは、案外重いことよ。相手が大切な者であるならば、尚更な。……重くなったときは、いつでも呼べ。達央たつひさを引き摺ってきてやるから、思う存分、あやつをなじるがよい』


 白姫さんの本気か冗談か分からぬ言葉に、それでも心遣いを感じ取って、俺は小さな笑みを零して肯く。

 大きな白い犬神は軽く目を伏せて一礼した後、長いしっぽを振ってお兄さんの後を追って店を出て行ったのだった。




*****




 カフェラテを飲み終えて時計を見ると、店に入ってだいぶ時間が過ぎていたようだ。そろそろ白瀬さんの仕事が終わる時間だと、席を立つ。

 店の外に出て、すっかり暗くなった道を図書館の方に向かって歩く。

 するとタイミング良く、白い大きな犬がこっちに向かって一目散に掛けてくるのが目に入った。

 雪尾さんだ。思った矢先、どーん、と思い切り飛び付かれてよろける。

 雪も降っていないのにすごいはしゃぎようだ。雪尾さんは尖った鼻先をふんふんと動かして、俺の匂いを嗅ぎ始める。

 何事かと思ったが、すぐに気づいた。

 きっと、白姫さんの匂いが俺に付いているのだろう。

 雪尾さんはそわそわと尻尾を揺らして、俺の周りとぐるぐると回る。


「わかりますか?雪尾さん」


 尋ねれば、じっと青い目が見返してきた。

 白姫さんのような声は無くとも、澄んだ青い目を見ていると、答えを返された気がした。


「……白瀬さんには内緒にして下さいね」


 お兄さんと白姫さんが来ていたことは、知らせない方がいいだろう。

 知らせれば、お兄さん達が白瀬さんに会わずに帰った意味が無い。黙っていてくれとは頼まれていないが、お兄さんが来たことも、いろいろ教えてくれたことも、黙っていようと決めていた。


 しぃー、と唇に指を当てて頼めば、雪尾さんはこてんと首を傾げる。了承してくれたのか、それともよくわかっていないのか。

 どっちだろう、と笑いながら一緒になって首を傾げる俺の耳に、ぱたぱたと近づいてくる足音が届いた。

 白いコートを着た白瀬さんが、小走りに駆け寄ってきて、ぺこりと頭を下げる。


「ごめんなさい、待たせてしまって」

「いいえ、そんなに待っていないですし。むしろいきなり呼び出してしまってすみません。来てくれて、ありがとうございます」

「いえ、そんなこと…」


 礼を言う俺に、彼女はふるふると慌てて首を横に振る。

 だが、ふとその動きが止まった。眼鏡の奥の黒い目が、じっと俺を見上げてくる。


「……大丈夫ですか?」

「え?」

「気のせいだったら、ごめんなさい。元気が無いように見えたので。もしかして体調悪いんじゃないんですか?」


 彼女の言葉に、ぎくりとした。


「……そんなこと、ないですよ。大丈夫です」


 見上げてくる彼女から目を逸らしながら、俺は手に持っていた紙袋を差し出す。


「これ、バレンタインのときのお返しです。いつも、お世話に、なって……」

 

 言いかけた声が、詰まった。

 目の部分が熱くなって、視界が霞んだ。見開かれる彼女の丸い目が、ぼやけて見えなくなる。


「……あれ…?」


 瞬きをすれば、頬を温い滴が伝う。

 それが涙だと気付いたときには、両目から溢れた涙が頬を濡らしていた。


「高階君…?」

「す…すみません、何でもありません…っ」


 何で泣いているのだろう。自分でも解らずに狼狽える。

 慌てて頬を拭って誤魔化そうとしたが、足元の方では雪尾さんがおろおろと俺の顔を見上げてくる。どうしたの、と心配そうに寄ってくる姿に、余計に涙腺が緩んだ。ぼろっと零れた涙を隠すために顔を手で隠す。


「すみません、本当に、何でも、なくて…っ」

「……謝らなくて、いいですよ」


 穏やかな声が聞こえて、俺の手に柔らかな布のようなものが触れる。隙間から覗き見えたのは、薄い水色のハンカチだ。


「使って下さい。擦ると赤くなりますよ。……あ、ティッシュの方がいいのかな?」


 ハンカチを俺の手に握らせた後、白瀬さんは軽い口調で言って、バッグの中をごそごそと漁る。

 どうしたのかと理由を問い詰めるわけでもなく、大丈夫ですよと慰めるわけでもない、彼女の普通の態度は、今の俺には有難かった。







 その日の帰り道。

 鼻を啜る俺の手を、白瀬さんがゆっくりと引きながら先を行く。俺よりも一回りは小さい手は、しっかりと安心させるように俺の手を包んでいた。


「少しは落ち着きましたか?……って、あのときと逆ですね」


 くすりと零れた彼女の笑みに、俺もふっと笑いを零す。

 足元では、あの時と同じように、ぐいぐいと雪尾さんが間に割り込んできている。相変わらず、慰めてくれているのか、やきもちを焼いているのか。

 雪尾さんの割り込みに白瀬さんはもう一度笑って、俺の方を振り返る


「無理に話さなくていいですから。私もまだ、いろいろなことを話せていません」

「……はい」

「いつか…話せる時が来たら、話しますね」


 それだけ言って、彼女は前を向く。

 斜め後ろから彼女の横顔を見ながら、俺は自分に尋ねる。




 いつか、話すときが来るのだろうか。


 あなたと、雪尾さんの秘密を――


 

 それはきっと、俺から話すことじゃない。

 だけど、ふたりの秘密を知ってしまった。

 秘密を抱えることの重さに、今さら気づいた。お兄さんの気持ちが、少しだけわかったような気がする。


 知らなければよかったと、後悔している気持ちもある。

 だけど、それ以上に、知ることができてよかったと安堵している。


 だって。


 以前よりも、ふたりのことを――愛しいと、思っているのだから。


 愛しいのに、苦しい。

 優しいけど、切ない。

 もどかしくて、悲しくて、それでも、やはりふたりの側にいることは嬉しくて。


 いとしい。

 いとしい――



 込み上げた想いに、再び零れた涙に、雪尾さんがぱたぱたと尻尾を振る。


 口元に無理やり笑みを作り、内緒ですよ、と無音で囁いた声は宙に溶ける。

 目に浮かぶ涙を堪えるために空を見上げる俺を、青い目はじっと見つめていた。




 書きたかったけど、話の進展上、書けなかったシーン。



***



 お兄さんが話し終えた時だった。白姫さんの耳がぴくりと動く。


『おや…』


 上を見上げた白姫さんはとんっと床を蹴って、軽やかに宙に舞って天井をすり抜けて消えてしまう。かと思えば、すぐに白姫さんは何かを咥えて戻ってきた。

 それは白い立派な毛並みの――


「…雪尾さん!?」

『こやつめ、立ち聞きしておったわ』


 白姫の厳しい声音に、くぅん、と情けない声が答える。

 雪尾さんは、首根っこを白姫さんにしっかりと咥えられ、さながら子犬が母犬に運ばれるようにしてずるずると引き摺られていた。

 雪尾さんは前脚をきゅっと丸めて、後脚は床についていたが、それは何とも可愛らしい姿だった。

 青い目が涙目で縋るように俺の方を見てくるので、余計に可愛い。



***



 白姫に咥えられて運ばれる雪尾をいつか本編でも書きたいものです。


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