40 白瀬と犬神
犬神は人に憑く犬の邪霊の一種とされ、四国や中国地方、九州といった西日本で広く伝えられている。
犬神を自在に操るものを『犬神使い』と呼び、その歴史は千年以上も前、平安の世にはすでに存在していたと伝えられている。そして『犬神筋』は、犬神を代々に渡って受け継いでいく、犬神使いの家系である。女子の誕生と共に犬神は増え、その娘が嫁ぐときには婚家に一緒に憑いていく。
犬神を祀れば家が富み栄えると言われており、現に犬神筋の家は古くからの名家であることが多い。犬神使い――強力な霊能力者を輩出する家系でもあり、裏の世界で重宝されていることもまた、富と権力が増える要因であった。
上質のスーツに身を包み、控えめなデザインながらも高級そうな腕時計を付けたお兄さんは、「一応私も企業の役員をしていてね」とさらりと言ってくる。
「ところで、君は『犬神』について知っているかい?」
「……前に、雪尾さんと会ったときに調べたことはあります。…その、犬の首を使って作るっていう…」
俺は図書館で読んだ妖怪の本の内容を思い返して、眉を顰めた。
犬神は、蠱毒の一種だ。人によって作られるそれは非道極まりなく、書物を読んでいても生臭さを感じるものだった。
まず、生きたままの犬を首だけが地上に出るようにして地中に埋める。犬の目の前には食べ物を置くが、決して食べさせずに飢えさせる。そして餓死寸前になった頃、背後から犬の首を切り落とし、今度はその首を人通りの激しい辻道に埋めるのだ。人々が頭上を往来し踏ませることで怨念を増させ、掘り出して呪物として祀れば犬神の完成だ。
おぞましいやり方で、人為的に作られた邪霊。
俺が傍らの白姫にちらりと目をやれば、彼女はすうっと目を細めた。
『我をあのような外道と一緒にするでないわ』
気分を害したように、俺の腕を白い尾が叩く。
「わ……す、すみません」
『ふふ、わかればよい』
「はは、確かに犬神筋の中には、君の知っている方法で犬神を作る家もあるよ。犬神の発祥にはいろいろあってね。弘法大師の犬の絵から生まれたとか、鵺の死体がばらばらになってできたとか。殺生石が割れた破片が犬神になったという話もあるが……白瀬家は、それらとは違うんだ」
お兄さんは、俺の傍らに座ったままの白姫を見やる。
「白瀬の犬神は、かつて山の主だったもの……山の神の使いであり、山の獣の長でもある『山犬』だ」
山犬は、狼とも言う。
山犬や狼への信仰は古く、山伏などは『大口の真神』と呼んで守護神としていた。これに守護されていれば、その霊力に寄り山の獣や魔物に襲われることは無い。また、災難や魔除け、あるいは憑き物を祓う力があると信じられている。
「白瀬の祖先は、とある神奈備の山を訪れ、山の主であった山犬と出会った。雪のように真っ白な毛並みの、それは大きく美しい犬だったそうだ」
やがてその山に人が踏み入るようになり、木々は切られ、大地は削られ、山の秩序は崩れた。獣達は逃げ惑い、山犬も治めるべき山を失った。
それを助けたのが、白瀬の祖先だ。人の手が伸びる前に獣達を別の山に移し、山を無くして力を失いかけた山犬を救った。
山犬は白瀬の祖先に感謝し、約束を交わす。
「山犬は、白瀬と契約をすることにした。山を守っていたように、白瀬の者を守る、と」
山犬は、白瀬の長であった若い娘に――否、正確には娘の胎に宿っていた子供に、己の核である『魂』を授けた。時が満ちて女児が生まれたとき、一緒に生まれたのが白い犬神だ。
以来、白瀬家では、女子の誕生と共に白い犬神が生まれるようになった。
山の主であり、獣の長であり、神の使いである白い犬神。
その力を受け継ぐ白瀬の犬神は、犬神筋の家の間でも注目された。
白く輝く毛並みは、楚々として壮麗。魔を避け、邪気を祓う能力は他の犬神よりもはるかに高い。
犬神筋で、白瀬の娘を嫁に取ることを望む家は多い。犬神筋の中で一番の名家である『大神』も例外ではなく、長い歴史で幾人もの白瀬の娘が、大神の本家や分家へと嫁入りしたものだ。
「妹の奈緒も、大神の本家に嫁いだしね。莉緒の方も縁談がひっきりなしに来る」
お兄さんの言葉に俺は少し躊躇った後、尋ねてみる。
「……じゃあ、白瀬さんにも?」
「いや、あの子には縁談は来ないよ。……来ないようにしている」
お兄さんの眉間に皺が寄り、苦い表情が浮かぶ。
「私がさっき言ったことは、大半の親戚や犬神筋の連中が言っていることだ。あの子には犬神を見る力が無い。だから嫁にはふさわしくないってね」
「そんな…っ」
「妹を侮辱されるのは腹が立つが、侮られている分はまだいい方なんだよ」
「え…」
どういう意味だ。
侮られている方がいい、とは。
「厄介なのは、あの子が “見えなくなった”理由を知っている奴等だ」
「ちょっと待って下さい、見えなくなったって…」
見えなくなった?
白瀬さんからは、昔から雪尾さんが見えていなかったと聞いている。見えなくなったって、まるで、本当は見えていたかのように言うなんて。
戸惑う俺に、お兄さんは淡々と言葉を続ける。
「……犬神に『目』を喰われた者と、その『目』を喰らった犬神の価値を知っている者は、あの子達を喉から手が出るほど欲しがるだろうね」
お兄さんの表情から、柔らかさが消えた。
犬神に関する記述は『幻想世界の住人たちⅣ』を参考にしておりますが、山犬を犬神に~というくだりは物語上の設定になります。




