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39 白い犬神と彼女の兄(後編)



『……われの言った通りであろう。わざわざ下手な芝居を打ちおって、青二才が』


 ふいに、妙齢の女性の声が聞こえた。

 艶やかな落ち着きと威厳のある声だ。はるか遠くから聞こえてくるような、すぐ耳元で囁かれているような。ぼやけているのに澄んでいる、不思議な響きを纏う声の方に視線をやれば、白い犬神が青い目を眇めて己の主――白瀬さんのお兄さんの方を見ている。


「そう言うな、白姫」


 お兄さんはまるで声に――犬神に応えるように渋面を作る。

 犬神とお兄さんを交互に見やる俺の頭の中に、ほほ、と鈴を転がすような笑い声が響いてきた。


『我の声が聞こえておるのだろう、高階たかしなの末裔よ。契約も交わしておらぬのに、大したものよ』

「……しゃべった…?」

『我が話すのはおかしいかえ?』


 犬神――いや、『白姫』は楽しそうに目を細めて笑う。

 白姫は巨大な身体を軽く揺らして近づき、艶のある白い毛並みを俺の身体に添わせてきた。すり、と白く立派なしっぽが脚に巻き付いてくる。

 感情が見えない瞳が涼やかに笑う様を見たせいか、先ほどまで犬神に感じていた畏怖が薄れていた。それでも巨体から滲み出る覇気は雪尾さんとは桁違いで、緊張する。

 硬直する俺に寄り添う白姫を見て、お兄さんは眉根を寄せた。


「随分と彼を気に入ったようだが、一応お前の主は私だぞ」

『ふん、我の可愛いを罵りおったくせによく言うわ。狂言でなかったら、その五月蝿い口ごと喉を噛み千切ってやったものを』


 つん、と白姫が大きな鼻先をお兄さんから背ける。

 ますます俺の方へと身体を寄せてくる犬神に、お兄さんは溜息をついた。少し気まずそうに首の後ろに手をやりながらこちらを見上げてくる。


「とりあえず、座らないかな?さっきも言ったように、少し話がしたいんだ」

「……はい」


 白姫とお兄さんの何とも砕けたやり取りに毒気を抜かれ、俺は思わず頷いていた。




*****




 再び向かい合って座った後、話を切り出すのかと思いきや、お兄さんはまず頭を下げてきた。


「先ほどは失礼なことを言ってすまなかった」

「え、いや、あの…」


 いきなり謝られて戸惑う。白瀬さんや雪尾さんの事を悪く言う嫌な兄だと思っていた分、居心地の悪さを覚えた。少し躊躇った後、口を開く。


「その……俺の方こそ、言い過ぎました」

「いや、そう仕向けたのは私だからな」

「……俺を試したってことですか」


 先ほどのお兄さんの台詞や白姫との会話ですでに気付いてはいた。確認のために尋ねれば、お兄さんはあっさりと頷く。


「白瀬の家と繋がりを持ちたい、強い犬神が欲しい、犬神を手に入れて家の力を強くしたい……そんな目的で妹に近づこうとする者もいてね」

「俺はそんなつもりは…」

「それは十分わかったよ。白瀬の次期当主に啖呵を切るくらいだからな。少しでも犬神筋に関わりを持ち、気に入られようとするなら、私の言葉に同意するか、何も言い返さないかだろう」

「……」

「君は、妹と雪尾のために怒ってくれた。…ありがとう」


 お兄さんは静かに微笑み、もう一度深く頭を下げた。

 その表情から、声から、彼が本当は白瀬さん達を大切に思っていることが伝わってくる。――だからなおさら、遣る瀬無い気持ちになって目を伏せた。

 

「顔を上げて下さい。俺は礼を言われるようなことはしていません。ただ…」


 膝の上の拳を強く握り、伏せていた目を上げてお兄さんを見つめる。


「試すにしても、それが白瀬さん達のためだとしても……あんな言い方は、止めて下さい。もしふたりが聞いたら、きっと傷つきます。それは、俺が嫌なんです」


 『自分の犬神も見ることができない、能力無しの妹』

 『図体がでかいだけで使えない、役に立たない犬神もどき』


 耳に残ったお兄さんの言葉は、本気じゃないと分かってもなお、胸に突き刺さって小さな痛みを与えていた。

 例え芝居だとしても、白瀬さん達を守るための狂言だとしても。

 口にしてほしくない。

 彼が白瀬さんの家族だからこそ、言ってほしくない。

 白瀬さんや雪尾さんには、絶対に聞かせたくない。悲しませたく、ない――


 俺の言葉に、顔を上げたお兄さんの目が軽く見開かれる。

 切れ長の目を丸くしてじっと見つめてくる様子は、顔立ちは全く似ていないのに、白瀬さんとよく似ているように見えた。


『……ほれ、見たことか』


 耳元でゆうるりと空気が震える。溜息のような音と共に、白く長いしっぽが揺れて、黙ったままのお兄さんの膝をぱしりと叩いた。

 お兄さんははっと我に返ってから、俺の背後を――白姫を見やる。


『悪い者ではないと言ったであろうが。我の仔が側にいることを許しておるのだから』

「……」


 やがてお兄さんはふっと笑みを零した。

 嬉しそうなのに、どこか寂しそうな笑みに、つと胸を突かれる。


「……そうだな、すまない」

「別に俺に謝ることは…」

「でも、君も傷ついただろう。悪かった」

「……」


 君も、とお兄さんは言った。彼もまた、己の言葉が白瀬さん達を傷つけることはわかっているのだろう。

 …余計な事を言ってしまっただろうか。

 少し不安になる俺に、お兄さんは「さて」と話題を切り替える。


「それじゃあ、まずは『犬神筋』について話そうか――」


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