38 白い犬神と彼女の兄(中編)
白い犬神を連れた男。
白瀬という名字。
そして『妹』というワードが出れば、目の前の男性が誰かはすぐにわかった。
「…白瀬さんのお兄さん、ですか」
「ああ」
白瀬達央と名乗った男性――白瀬さんのお兄さんは、唇の片端を上げて頷いた。
「それにしても、本当にいい『目』を持っている」
彼の切れ長の目が、感心したように眇められる。
「一応、『白姫』には姿を消すように命じていたんだよ。犬神筋の者でも見えないようにしていたんだが、君の『目』にはよく見えたようだね」
「……あれは、あなたの犬神ですか?」
「正確には、白瀬の家の犬神だよ。小さい方を連れてきたんだ」
小さい方ということは、他にもう一匹、あるいは数匹は『白姫』以上の大きさの犬神がいるのか。
雪尾さんや、白瀬さんの妹の犬神であるショコラしか見たことが無かったので、少しぞっとしてしまう。大きくて白い毛並みが綺麗だったが、どこか無機質な光を宿す青い目が怖かった。
いまだに鳥肌の納まらぬ腕を擦って、俺はお兄さんを見やった。
丸顔で優しげな風貌の白瀬さんとは、あまり似ていないように思える。きりりとした怜悧な容貌に、きっちりと締めたネクタイと皺の無いスーツが良く似合い、男の俺から見ても格好良く見えた。
落ち着いた笑みを湛える彼からは妙な威圧感を感じ、やや気圧されながらも尋ねる。
「どうして俺のことを知っているんですか?」
「妹から聞いたんだ。…ああ、あの子じゃないよ。長女の奈緒の方からね。会ったことはあるだろう?」
「…はい」
確かに、少し前に白瀬さんの姉である奈緒さんと、それに妹の莉緒さんにも会っている。
ちょっとした騒動があったため、莉緒さんの方とは話したものの、奈緒さんの方とはゆっくりと話すことはできなかった。自己紹介をしただけで、あとは三姉妹の語らいを邪魔しないようにとその場をすぐに離れたものだ。
とりあえず、自分の名前を知られている理由はわかった。だが、彼はなぜ一目で俺が『高階恵』だとわかったのか。顔は知らないはずなのに。
疑問はすぐに明かされた。
「ついでに、君のことを少し調べさせてもらったよ」
「え…」
思わぬ回答に困惑し眉根を寄せる俺に、お兄さんは笑顔のまま告げる。
「高階恵、二十歳。この近くの県立大学に通う工学部の二期生。誕生日は……って細かいことは置いておこうか。君、五代前まで大神分家の一つだった高階家の末裔だったんだね」
「は?」
「お祖父さんから聞いていないかな?君の祖父も見える人だろう。犬神筋では少し名を知られているくらいだから」
唐突に告げられた言葉に、俺はただ口をぽかんと開けることしかできなかった。
確かに、父方の祖父の家系には霊感がある者が多くおり、かつては犬神を使っていたと聞いたことはある。しかし、実際に犬神使いの家系だったと言われても実感は湧かない。それよりも祖父の事が彼らに知られているという方に驚いていた。
「祖父の事を知っているんですか?」
「直接会ったことはないけれど、知り合いから話を聞いたよ。彼もとても素晴らしい『目』と『力』を持っているって。ああ、だけど君以外の親族には、その力は受け継がれていないようだ」
「……」
自分だけじゃない。家族の事も知られている。
少しどころか、ずいぶんと念入りに調べられているようだ。
警戒心が増した俺に気づいているのかいないのか、お兄さんはのんびりとコーヒーに口をつけている。彼の余裕の表情に、ひしひしと緊張が高まる。
俺は膝に置いていた本を鞄に仕舞い、カフェラテを一口飲んで気を落ち着かせた。そして単刀直入に尋ねる。
「……俺に、何の用ですか」
「はは、そんなに睨まないでほしいな」
強張った俺の声に、お兄さんは軽く笑っただけだった。
「妹と仲良くしてもらっているようだから、挨拶がてら顔を見に来ただけだよ。いや、まさか妹にこんな素敵な男友達ができるなんてね」
「……」
「自分の犬神も見ることができないあの子の側に、君みたいに優秀な目を持つ者がいてくれると助かるよ。能力無しの妹と付き合うのは大変だろうが、よろしく頼むよ」
柔らかな口調と言葉だけ聞くとまるで俺を褒めているようだが、感じるのは冷たい棘と揶揄するような響きだ。しかもその揶揄は、俺に向かっていない。
「それに図体がでかいだけで使えない『犬神もどき』にも、親切にしてくれているらしいな。役に立たない犬神だが、これからも可愛がってくれよ」
「っ…」
――白瀬さんと、雪尾さんを、貶された。
すっと血の気が引くと同時に、腹の底でぐらりと揺れるものがある。湧き出した強い怒りが胸にせり上げ、俺からしばし言葉を奪った。
もっとも、今声を出せば、場所も忘れて怒鳴ってしまうだろう。怒りを抑えるために、膝の上で拳を強く握った。
激情を押し込めて、俺はゆっくりと口を開く。
「……その言葉、取り消して下さい」
「なぜ?」
「あなたが何を考えているのか知りませんけど、白瀬さんと雪尾さんの事を悪く言わないで下さい」
「本当の事を言ったまでだが?」
必死に抑えている俺の感情を逆撫でするように、お兄さんはうっすらと嘲笑を浮かべた。
頭の奥が、腹の底が、かっと熱くなる。向けられる彼の余裕の眼差しを、思わず強く睨み返した。
「本当の事?それはあんたが勝手に思っている事でしょうが。見えないから何だって言うんですか。使えないとか、役に立たないとか、それがどうしたって言うんですか。そんなこと関係ない。俺が、あのふたりと一緒にいたいだけだ」
くそ。
悔しい。腹が立つ。
怒りと悔しさで敬語も忘れ、俺は目の前の男に言葉をぶつける。
「あんた、白瀬さんの兄貴だろう。自分の妹のこと悪く言うなよ。雪尾さんだって、あんたの家の犬神だろうが。何で平気で馬鹿にしてんだよ。ふざけんなよ」
強く握った拳が痛い。一発ぶん殴りたい衝動を堪えて、ぐっと奥歯を噛み締める。
そんな俺を、お兄さんはただ黙って見ていた。感情的になっていた俺は、彼の視線から冷たさが消えていることには気づかなかった。
怒りにまかせて年上に失礼な物言いをしたのは承知しているが、非を詫びる気には到底なれず、俺は乱暴に席を立つ。
「……失礼します。これ以上あなたと話したくありません。あのふたりの事を悪く言われたら、殴りそうですから」
何とか言い残してバッグの持ち手を握った俺に、落ち着いた声がかけられる。
「待ちなさい」
「……」
無視して去ろうとした俺だったが、「白姫」と小さく呼びかける声が聞こえた。
途端、俺の行く方に白い大きな影が降ってくる。目の前に現れた白い巨大な犬神に背筋が粟立ち、勝手に四肢が強張る。青い氷のような眼差しに捉えられれば、支配していた怒りがすっと引いた。
犬神を使ってまで俺の退路を断った張本人は、どこか呆れたように息を付いている。
「まったく……残念だよ、高階君」
「何が…」
「妹に付く悪い虫を追い払おうと思っていたのに。予想以上にいい奴で、ちょっと困った」
「…は?」
振り返った俺に、座ったままのお兄さんが柔らかな苦笑を見せる。
そのとき、彼が纏っていた威圧感や冷たさが消え失せていることに、俺はようやく気づいた。無言のまま立ち尽くす俺に、お兄さんは穏やかになった目を向ける。
「どうか座ってくれないか。……妹と雪尾の事について、聞いてもらいたいことがあるんだ」
態度の変わったお兄さんを、俺は呆気に取られて見つめた。




