37 白い犬神と彼女の兄(前編)
落ち着いた辛子色に白いレースのような模様、イタリック体の茶色の英字が書かれた紙袋。
中には同じ色の包装に、茶色のリボンが掛かった小箱が一つ。箱の中身は、ココアパウダーのかかったトリュフの詰め合わせだった。洋酒の効いた甘さ控えめのトリュフは、すでに己の胃袋の中に納まってしまっている。
添えられたメッセージカードには、『いつもありがとうございます。感謝を込めて』と丁寧な字で書かれていた。
義理であるとはわかっていても、二月十四日にこれを渡してきた彼女の顔――平静さを装いながらもしどろもどろで真っ赤になっていた様子を思い浮かべると、妙に気恥ずかしいというか、嬉しくなってしまう。
さあ、お返しはどうしようか。
カレンダーの日付を見ながら、俺は近づいてくるホワイトデーの準備をいそいそと始めるのだった。
*****
夕方、借りていた本を返すために図書館へ行き、人が少なくなったカウンターで業務をしていた白瀬さんに伝える。
渡したいものがあるので、隣のコーヒーショップで待っています、と。
彼女はきょとんと眼を瞬かせた後、今日が三月十四日であることに思い当たったらしい。「はっ、はい、わ、わかりました」と驚きながらも首を縦に振った。
焦る様子を可愛く思いながら、俺はしばし館内をぶらついて本を借りた後、コーヒーショップで待つことにした。
カウンターでカフェラテを買って、二人掛けのテーブル席に座る。ふかふかのソファが心地良い。
ショルダーバッグから借りてきた本を取り出して、厚いハードカバーの表紙を開いた。このコーヒーショップは図書館の隣ということもあり、本を借りた人達がコーヒーを飲みながら本を読んで寛ぐ姿がよく見られる。
ぱらり、ぱらりと頁をめくって文章を目で追っていれば、視界の端に人影が映った。
濃灰色のスラックスに包まれた脚が、俺の座る席の向かいへと近づいてくる。
そして――
「すみません、相席よろしいでしょうか?……高階恵君」
俺の名前を、呼んだ。
はっとして顔を上げれば、濃い灰色のスーツを身に纏い、腕に黒いコートを抱えた男性が立っていた。
三十代前後といったところか。背の高い、少し冷たさを感じさせるが整った容貌を持つ男だ。緩く撫で上げて一部を横に流した黒い前髪の下で、切れ長の目がこちらを見下ろしている。
ぞわりと背筋が寒くなったのは、彼の背後に巨大な影を見つけたからだ。膝の上に置いていた本から手が離れ、ぱらぱらと頁が流れる。
「っ、……」
それは、巨大な白い狼だった。
雪尾さんよりも一回り、いや、二回りは大きい。白く長い毛並みは光を纏い、揺れて波打つ光沢で銀色のようにも見える。
吊り上った眦の深く青い瞳が、俺を静かに捉える。
それだけで、息が詰まって身動きが取れなくなった。
いつもの霊やらの類とは異なっていた。
『恐れ』ではなく『畏れ』――畏怖に支配される。
今まで『見て』きたモノ達と、明らかに格が違った。
硬直する俺に、白い狼を従えた男性が「ふむ」と一人ごちた後、小さな声で言う。
「『白姫』、外で待っていなさい」
その声に白い狼は軽く頷くと、店内にいる人や置かれたテーブルはもちろん、通りに面した硝子を通り抜けて消えてしまった。
満ちていた圧迫感が無くなった後、呼吸を忘れていた喉がようやく動いた。息を吸い込めば、どっと冷や汗が背中に伝うのがわかる。
目の表面が痛んだことで、俺はあの狼――おそらくは犬神を瞬きもせずに凝視していたのだと気付いた。
呼吸を整える前に、向かいの席でぎしりと音がする。目線をわずかに上げれば、すでに席にはスーツの男性が座っていた。
巨大な犬神を連れた、見知らぬ男。
なのに、自分の事を知っている。
顔も、名前も、知られている。
今すぐ立ち去りたいが、外に出ればあの犬神と鉢合わせするのだろう。
――逃げることはできない。
俺は呼吸を整えて、目の前の男性を睨むように見返した。すると、男性は少し困ったように苦笑する。
「すまない、怖がらせてしまったな。君に害を加える気は無いから、あまり緊張しないでくれないか」
「……」
「ああ、そういえば自己紹介もまだだったな。私は、白瀬達央だ」
「え…」
『白瀬』。
聞き慣れた、呼び慣れた名字に、俺は目を見開く。
「いつも、妹が世話になっているようだね。高階君」
驚く俺に、男性は涼やかな笑みを浮かべてみせたのだった。




