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35 白い犬とあなたと白い世界


 気づいて。


 お願い。

 気づいて。


 ほら、今も。

 彼の青い目が、あなたを――




*****




 定期考査で単位を無事修得して、春休みに入った。

 大学二年生の春休みはそれほど忙しくない。来年になれば就活でてんやわんやするのであろうが、今はもっぱら伯父の喫茶店でバイトをしたり、来年度から入る研究室のプレゼミに参加したり、親しい友人達と小旅行に出かけたりと、のんびりと過ごしている。

 今日は店休日で、昨晩からの冷え込みで雪が積もったこともあり、家で一日ゆっくり過ごそうかと考えていた。遅めの朝食をとって、テレビを見ながら炬燵で蜜柑。

 冬の名残を惜しむように満喫していたが、ふと窓の外に見える白い雪を見て考えが変わった。


 雪 = 雪尾さん。

 

 雪を見てすぐに、顔見知りの白い犬神を連想してしまうのも何だが、思い立ったが吉日だ。

 家着のジャージを脱ぎ、長袖シャツにセーターを重ね、お気に入りの灰色のダッフルコートを羽織る。


「ちょっと図書館に行って来る」


 黒いマフラーを巻きながら伯父に外出する旨を告げて、俺は外に出た。

 住民によって朝方にある程度除雪されてはいたが、残った雪が解けて所々凍った道路は滑りやすい。転ばないように気を付けながら、図書館へ向かう。

 門を通って駐車場を抜ければ、広場の奥に図書館の建物が見えた。

 雪が一面に積もった広場は、白く染まっている。その白い景色の中を、何か白いものが跳ねていることに気づいた。


 ……雪尾さんだ。


 遠目でも分かる。

 長いしっぽをぶんぶんと振って雪原を思い切り駆け回る姿は、いかにも楽しそうだ。いつもは凛々しい雰囲気なのに、何とも無邪気で可愛く見えた。

 口元を緩ませる俺の視界に、東屋の屋根の下にいる人の姿が映る。


 東屋のベンチにぽつんと座っているのは、白いコートを着た、肩ほどまでの黒髪の女性だった。


 広場を眺めている彼女は背を向けているため顔は見えないが、何となく誰か分かる。

 背後からさくさくと雪を踏んで近づいて、声を掛けてみた。


「白瀬さん?」

「…高階君?」


 振り向いたのは、案の定、白瀬さんだ。眼鏡の奥の目を、驚いたようにぱちりと瞬かせている。

 寒い外にいるせいか、それとも手に持ったカフェオレの湯気のせいか、彼女の頬と鼻はうっすらと赤くなっていた。バーバリーチェックのマフラーで顎の輪郭が隠れた顔は、いつもよりも幼く見える。

 彼女が着る白いダウンコートのフードと襟の縁には、エスキモーのような白いファーがついており、もふもふと暖かそうだった。


 …雪尾さんとお揃いだ。

 二人並んだらさぞかし和む光景だろうなあ。


 などと心の中で呟きながら、俺は許可を得て彼女の隣――すぐ隣に座れる程の意気地は無かったので、一人分空けて座る。

 ぽつぽつと雑談を交わす間も、彼女の目は雪尾さんを追っている。俺も彼女の視線を追うように、広場へと目を向けた。

 とうっとしなやかに身体を伸ばしてジャンプし、身体を捻って一回転。そのまま雪の中にぼふっと突っ込んでごろごろごろと転がる。かと思えば、脚で雪を力強く蹴って全力疾走だ。


 ああ、ものすごくはしゃいでる。

 雪尾さんは、名前に使われるくらい雪が好きらしい。それを見る彼女も嬉しそうだったので、つい尋ねてみた。


「白瀬さんも、雪が好きですか?」


 その問いに、白瀬さんは少し考えてから、頷く。


「好きです。雪のおかげで、初めて雪尾に気付けたから。……私、最初は全然雪尾を見ることができなかったんです。しっぽすら、見えていなかった」


 彼女はそう言って、はるか遠くを見る眼差しをする。

 過去を思い出しているのか、それとも今の雪尾さんを見ようとしているのか。


 その横顔に、ふと既視感を覚える。


 そして、彼女が時折こんな目をすることを思い出す。

 いつも側にいる雪尾さんを見る目は、温かくて優しいのに――どこか不安そうで、頼りなくて、心細そうに見えてしまうときがある。


「……不思議ですね。雪が降ると、ほっとするんです。雪尾がそこにいるんだって、いつもよりも実感できて」


 音もなく降っては、寒さを伝えてくる雪のように。


「だから、嬉しいのかもしれません。雪が私と雪尾を会わせてくれたから、雪尾が側にいることを教えてくれるから、雪が好きです」


 彼女の言葉から、眼差しから、感情が伝わってくる。

 

 雪尾さんの姿を見ることのできない彼女。

 しっぽだけしか見ることのできない彼女。

 

 白瀬さんにとっては、俺の質問への単なる回答だったのかもしれない。

 だけど、なぜか、その他愛もない答えが、俺の心に深く降り積もる。


 しん、しん、と。音も無く。

 今までほんの少し気になっていたことが、いつの間にか積もっていて。

 白い原となった野辺に、最後の雪の一片が落ちたとき。


 俺は、彼女にかける言葉を、懸命に探していた。




*****




 雪尾さん。

 雪尾さん。


 彼女に、伝えてもいいですか。


 いつもあなたが、彼女を見つめているということを。


 雪原を駆けまわりながらも、精一杯はしゃぎながらも。

 時折立ち止まって、振り返って、青い眼差しで彼女をじっと見つめていることを。


 いつも、そうだ。

 彼女の足元に座っているときも。図書館の棚の上に寝そべっているときも。彼女の脚に寄り添いながら歩くときも。


 雪尾さんの目は、常に彼女を追っていた。

 白瀬さんが、彼の白いしっぽを追うように。



 気づいて。

 ねえ、気づいて。


 こっちを見て。



 青い眼差しは、じっと、彼女を見つめて。

 彼女が見てくれれば、白いしっぽを嬉しそうに振るのだ。


 たとえ、ふたりの視線が交わることは無くても。

 雪尾さんは、嬉しそうに白いしっぽを振るのだ。


 ――白瀬さんにも、見えたらいいのに。

 

 そう、身勝手に思ってしまう。

 俺の『目』が、彼女にもあればいいのにと。


 同じ光景が見られたら、彼女が抱えている不安なんて、きっと無くなるから。心細そうな顔なんてしなくていいんですよ、って。

 雪尾さんだって、じっと見つめなくてもすぐに白瀬さんが気づいてくれるから。そんなに何度も振り返らなくていいんですよ、って。


 だけど、そんなことはただの俺の願いでしかなくて。

 願いが叶わないことを、きっと、ふたりともわかっているから。


 だから、ふたりは、互いに見つめ合うのだ。

 合わない視線で、懸命に相手の姿を追うのだ。


 雪尾さんは、青い目で。

 白瀬さんは、白いしっぽを。


 そうやって向き合って、細くて見えない糸を手探りで探して、繋がろうとしている。


 それが、解って――




*****




 口を突いて出たのは、雪の色の話だった。

 見えないものを見ようとする白瀬さんを少しでも元気づけたくて。何かを伝えたくて話したが、ふと我に返れば、何とも恥ずかしい台詞を言ってしまったような気がする。

 それを白瀬さんは笑わずに、真面目な顔で頷いてくれるから、余計に頬に熱が集まってくる。


「…ええと、その……俺、雪尾さんと遊んできますっ」


 赤くなった顔を見せるのも気まずかったし、それに――


 勢いよく広場を駆け出せば、向こうから雪尾さんが気付いて駆け寄ってくる。

 遊んでーと言わんばかりに、正面から勢いよく飛び掛かってきて、俺は仰向けに雪の上に倒れ込んだ。


 腹の上にのしっと重みがかかり、倒れたまま動かない俺の顔を、雪尾さんが覗きこんでくる。


「……雪尾さん、泣いてもいいですか…」


 片腕で目元を押さえた俺に、雪尾さんの耳がぴっと跳ねる。えっ、えっ、と焦る気配が伝わってきたので、「冗談です」と口元だけで笑って返した。

 雪尾さんは不思議そうに、足裏でぺふぺふと俺の顔を叩いてくる。


 …やばい、本当に泣きそうだ。

 

 そうなる前にがばりと起き上って、目元を乱暴に腕で拭う。ゆっくりと見回した世界は、それでも白くぼやけていた。


 その中で跳ね回る白い影。

 雪と白い犬神の輪郭が溶けて混じり合った世界は、いつもよりも頼りなくて。


 彼女が見ている世界の光を、少しだけ見せてもらったような気がした。


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