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32 白い犬と祖父と犬神憑き


 目が覚めたとき、そこはいつも通りの自分の部屋だった。

 布団の上にいた黒い女の気配は全く無く、部屋の中に漂っていた黒い霧も晴れている。

 掛布団を剥ぎ、ゆっくりと身を起こして部屋を見渡せば、四隅と中央に置かれた塩の小皿と榊の枝、清酒の瓶、それから枕元の数珠が目に入った。どうやら、祖父の祓いによって、あの霊はいなくなったようだ。

 頭痛の名残のせいか、頭は重くてふらつくものの気持ち悪さは失せていた。ずっと身体を蝕んでいた寒気も無くなって、特に胸の辺りはぽかぽかと温かい感じがする。


「そういえば…」


 夢の中のことを思い出して、くすっと笑いが零れる。

 白い大きな犬が俺の胸の上に前足を揃え、伏せた状態でどっかりと乗っかっていたのだ。重いです、と言ってもどいてくれずに、結局乗せたまま寝てしまうという、妙に現実感のある夢だった。

 もふもふした毛並みを撫でてみたかったな、と思い返していれば、部屋のドアがノックされた。


めぐむ、起きとるか?入るぞ」


 こちらの返事を待つことなくドアを開いたのは、紺色の丹前を着た祖父の薫だ。ベッドの上で身を起こした俺の方を見て、厳めしい顔つきを少しだけ和らげる。


「具合はどうだ?」

「もう大丈夫。ありがとう、じーさん」

「儂は最初の処置だけしかしとらんがな。半分以上は犬神さんのおかげだ」

「え?犬神って…」

「お前が話していた白い犬神さんだ。見舞いに来ただろ?お嬢さんもそう言っとったしな」

「ええっ!?」


 祖父の言葉に俺は目を見開く。

 あれは夢じゃなかったのか。布団の上に乗っかってこちらを見下ろしてきた白い犬は、本物の雪尾さんだったのか。雪尾さんを前にして寝てしまうなんて、勿体無いことをした。

 しかも『お嬢さん』って。


「白瀬さん、うちに来てるの?」

「章良の店の方に来とるよ。犬神さんを連れてな」

「うそ、本当に、ちょ、俺、お礼言いに…っ」


 あたふたと掛布団を剥がしてベッドから降りようとすれば、まだ身体が本調子でないせいか、ぐらりと視界が揺れた。倒れかけた身体を祖父がすかさず支えて、呆れた息を付く。


「まだ寝とかんか。そんな顔色で会いに行っても心配させるだけだろうが」

「う…」


 ぴしゃりと叱られ、俺はすごすごとベッドの中へと引き戻る。

 確かに、気分はよくなったものの霊にあてられて疲弊した精神と身体は回復していない。これで無理に起き出して行ったところで、白瀬さんや雪尾さんに心配をかけるだけだ。

 今度会ったらお礼を言おうと決意しながら、大人しく掛布団を被った。

 祖父はベッド横に置いてあった椅子に座り、部屋の中をぐるりと見渡す。


「しかしまた……すごいもんだ」

「何が?」

「部屋の中がすっかり綺麗になっとる。まさか犬神がここまでできるとはなぁ…」


 大したもんだ、と祖父は感心したように頷く。


「…じーさん、雪尾さんに会った?」

「ユキオさんというのか、あの犬神は。……久しぶりにいいものを見たな」


 祖父は眉間の皺を緩めて、そっと目を細めた。



***



 白い毛並みに、青い瞳の大きな犬神。

 あれほど汚れの無い、邪気の無い無垢な犬神は滅多にいない。


 そして、その犬神を使役せずに、ただ側に居させる娘。


 本来、犬神は人には憑かない。『犬神筋』は家の呼称であり、家に憑くものだ。

 娘と共に生まれる犬神は、やがては娘が嫁いだ先へと憑いて行き、その家と契約して犬神になるのが習わしである。

 だから、あのように大きく立派な、そしておそらくは契約前の犬神を連れて歩く娘は珍しい。本来ならとっくに嫁いでいてもおかしくない年齢に見えたし、家の方も適齢期の娘を独身のまま放っておくことはしないはずだ。

 犬神使いとして独立する娘もいるとは聞くが、あの娘は犬神使いではないと言っていた。

 何やら理由がありそうではあったが――。



***



 黙ってしまった祖父は、何やら思案しているようだった。

 まさか雪尾さんを祓う気だろうか、と一瞬不安になって、思わず声を掛けた。


「じーさん、雪尾さんはいいやつだから。俺、けっこう世話になってるし…」

「わかっとるわ、それくらい」


 俺の注意に、祖父は間髪入れずに返してきた。どうやら祓う云々を考えていたわけではないらしいとほっとする。

 その間に立ち上がった祖父は、部屋の四隅に置いてあった塩の小皿を片付け始めた。

 普段なら一晩は置いておくのだが、もう片付けてしまうのか。不思議に思っていれば、祖父は皿を手にしながら言う。


「もう必要ないだろう。完全に祓ってあるし……ほれ」


 そう言って祖父が指差したのは、俺が被っている掛布団だ。

 指の先を追って視線をやって、ようやく気付いた。


 掛布団の上は、白くぼんやりと光っていた。

 シーツの所々に白く光る毛が残っており、まるでそこに大きな犬が身体を擦りつけていったかのような痕が残っていたのだ。


「…………マーキング…?」


 思い付いた言葉を呟く俺に、祖父がやれやれと首を横に振った。


「儂の祓いよりよっぽど強いわ。当分は大丈夫だろうて」


 祖父のお祓いよりも効く、雪尾さんのマーキング。


 呆れ半分、感心半分の祖父の言葉に頷きながら、俺はじわじわと込み上げてくる笑いを何とか噛み殺した。







 数日後。図書館で会った際に雪尾さんに見舞いの礼を言えば、足元にぐいぐいと身体を寄せてきた。

 ズボンの裾が真っ白に光るまですり寄った後、雪尾さんはこれでよしというように離れていく。それを見た白瀬さんは「すっかり懐いたんだね」と驚いていたものだ。

 かくいう俺は、再度吹き出しそうになりながら何とか笑いを噛み殺したのであった。

 


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