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31 白い犬と黒い女

 鈍く重い頭を枕に沈めた俺の上で、嗤う声がする。

 薄く開いた目に映るのは黒い影のような女だ。長い黒髪が布団の上へと垂れ、口の部分だけがポカリと開いて、赤黒い口腔を覗かせながら嗤っている。

 胸にずしりとかかる重みは、布団を被っても消えることは無い。息苦しくて、頭痛と目眩は強くなる。

 目を閉じても、くすくす、ひひひ、ふふ、あははぁ、と囁くような笑い声が耳に木霊した。

 眠りに付くこともできず、浅く息をして気持ち悪さを薄める。

 最悪の状態に、俺は大学で知り合った友人の顔を思い浮かべながら小さく悪態をついた。





 有名な心霊スポットに行ってきたと自慢する友人。

 その背後にいた彼女それを『見て』しまったのが運の尽きだった。


 長い前髪で顔全体が影になっていて目の位置など分からなかったが、目が合ったのは分かった。すぐに素知らぬふりをして無視を通したが、すでに彼女は友人の背後からいなくなっていた。

 気づけば、視界に度々入る長い黒髪。白すぎる手や黒いワンピースの裾。暖房が効いているのに背中や腕にびっしりと鳥肌が立ち、頭痛と目眩に襲われる。

 憑かれた、と長年の経験でわかった。

 しかも、身に付けていたお守りも塩も全く効かない、強い霊に。


 久しぶりに強い奴に遭遇した。やばいと直感で思い、午前の講義を終えた俺は倒れる前に大学を出たようとした。

 しかし、そこで見覚えのある数人の女子と男子のグループに呼び止められる。どうやら今からカラオケに行くらしく、一緒に行こうよと女子達が誘ってくる。

体調不良を理由に断れば、不満そうに口を尖らせる彼女達と、それを面白くなさそうに見ている男子達の周囲にうっすらと影が見え始めた。

 その霧が黒く濃くなっていくのは、背後にいる黒い女の影響だ。

 ぞわぞわと寄ってくる霧に、視界は暗くなった。頭痛と目眩が一気にひどくなり――


 そこで、意識は途切れた。



 次に目が覚めたときは、自室のベッドの上だった。

 心配そうに見下ろしてくるのは、俺のバイト先の『シリウス』の店長であり、母方の伯父でもある章良あきよし伯父さんだ。俺が目を覚ましたことに気づき、眼鏡の奥の目がほっと和らいだ。

 どうやら大学から連絡がいって、伯父が家まで連れて帰ってきてくれたらしい。以前にも一度、入学試験の折にもあったことなので、対応は慣れていた。

 伯父はベッドの傍らに置いた椅子に腰掛けて、口を開く。


かおるさんには連絡を入れたよ」

「じーさんに…?」

「すぐに来るって。あと一時間もかからないと思うから」

「…ありがとう。ごめん、おじさん」

「謝ることじゃないよ。それより、もうしばらく休んでいなさい」

「……わかった」


 伯父の言葉に頷くものの、休めそうにないなと頭の片隅で思う。

 何しろ、伯父のすぐ後ろに、赤い口の端を上げて嗤う黒い女が立っているのだから。





 それから四十分後、結局眠ることもできずに黒い女に乗っかられて魘される俺を見た祖父は、普段から皺の寄っている眉間にさらに深い谷を作った。


「……久しぶりに呼び出しくらったかと思ったら、厄介なもん憑けてやがるな」


 和装の上に着た鳶合羽インバネスコートも脱がずに、ずかずかとベッドの側までやってきた祖父は片手に持った数珠を突き出す。

 黒い女は嫌がるように数珠を避け、ずずとベッドの隅へと移動した。

 祖父は持っていた風呂敷包みを椅子の上に置き、数珠を俺の胸の上に置く。ふっと胸が軽くなり、呼吸が楽になった。


「…じーさん」

「どれ、少し寝てろ」


 ぶっきらぼうな声と共に、瞼の上に節くれだった硬い指の先が乗せられる。

 祖父の着物に焚き染められた香の匂いは懐かしく、小さい頃よく頭を撫でてくれた手の感触は温かく、俺は落ちるように深い眠りについた。





*****





 胸が重い。

 また、あの黒い女が乗っているのか。

 じーさんが祓ってくれたはずなのに、相当強い奴なのだろうか。


 ああ、でも。

 何だかとても、あたたかい。

 重いけど、苦しくない。

 

 ふっと目を開ければ、目の前に白いものがある。


 逆三角の顔に、ぴんと立った三角の耳。

 ふさふさとした白い毛並みに、濡れた鼻先。

 青白いシリウスのように光るのは、獣の一対の目だ。

 見覚えのある犬の顔に、俺は口を開く。


「……雪尾さん…?」


 声を掛ければ、青い目がこちらを不思議そうに見下ろしてきて、こてんと首を傾げる。

 いや、首を傾げたいのはこっちだ。

 なんでここに雪尾さんがいる。

 もしかしてこれは夢なのだろうか。

 はっきりしていない意識の中で、俺は雪尾さんらしきものを見上げた。

 雪尾さん(らしきもの)は白く大きな前脚を俺の胸の上に揃え、伏せるようにして乗っかっている。どうりで重いはずだ。


「重いです、雪尾さん…」


 文句を言っても、雪尾さんはどっかりと乗っかって一向に退く気配はない。

 何だか本当に雪尾さんらしくて、夢の中だとわかっていても笑いが零れてしまう。


 ああ、よかった。

 夢に出てきたのが、黒い女じゃなくて、雪尾さんで。


 現実でも、夢の中でも、助けてくれて。


「……ありがとう」


 小さく呟いた言葉に、足元でぱたぱたと白い大きなしっぽが揺れた気がした。


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