30 白いしっぽとおじいさん(後編)
店主からカウンター越しにミルクティーとホットミルクを受け取りながら、私は「そういえば」と尋ねる。
「高階君は今日お休みなんですね」
「ああ、はい。少し体調が悪いので休ませています」
「え?」
あっさり返された言葉に驚いて、雪尾の方へと置こうとしたホットミルクのカップがかたんと揺れる。小さく跳ねた白い雫は零れはしなかったものの、ミルクを待っていた白いしっぽがぴっと跳ねた。
「大丈夫なんですか?もしかしてインフルエンザとか…」
「いえ、まあ…何というか…」
店主は苦笑しながら、おじいさんの方に目線をやる。話を振られたおじいさんはコーヒーカップをソーサーに置いて、うなじを掻いた。
「…時々具合が悪くなるんだ、あの子は。昔から、見える分あてられやすい体質でね」
「あ…」
そうか、と合点がいく。
高階君は『目』がいい。雪尾の姿は勿論のこと、私の目には見えないものを見ることができる。
思えば最初の出会いも(高階君から聞いて知ったのだが)、彼が大量の雑霊の塊を見て憑りつかれ、具合が悪くなっているところに行きあったのだ。
「まあ、だから儂が来たってわけだ。正式なもんじゃないが、祓いの真似事はできる。さっきある程度は散らしてきたから、しばらくすりゃあよくなるだろ」
店の裏手にある店主の家に、高階君は下宿しているらしい。だから今日おじいさんが店を訪ねてきたそうだ。
神妙に話を聞いていた私の足元で、ふと、白いしっぽがぺしりと足の甲を叩いてきた。
「どうしたの?」
雪尾はしっぽを大きく揺らして、立ち上がる。白いしっぽは勇ましく揺れながら、店の奥へと向かった。
何となく雪尾のしようとしていることがわかって、私は呼び止めることはせずに見送った。
「お嬢ちゃん、犬神さんはどうしたんだい?」
同じく雪尾の姿を見送りながらおじいさんが尋ねてくるので、私は苦笑しながら答える。
「たぶん、高階君のお見舞いに行ったんだと思います」
「恵の?」
「はい」
高階君を心配しているのか、それとも好奇心か。白いしっぽは興味津々といった態で、奥へと続く廊下のドアの向こうへ消えてしまった。
雪尾が居なくなった後、おじいさんは私の方をまじまじと見てくる。
「えらく懐いているもんだな」
「え?」
「犬神さんさ。あれだけ主を慕っている犬神はそうはいねぇ。お嬢ちゃんはいい犬神使いだな」
「……」
おじいさんの言葉に、私はしばし答えを躊躇った。
犬神筋だということを人に言わないように小さい頃から言われていたが、高階君はすでに知っていることだし、彼のおじいさんなら大丈夫だろう。
「私は犬神使いではないんです。犬神筋の家には生まれましたけど…」
「……そうか。すまねぇ、悪いこと聞いちまったなぁ」
言葉を濁せば、おじいさんは目を丸くした後、申し訳なさそうに眉尻を下げて謝ってきた。私は慌てて首を横に振る。
「いえ、そんな、謝らないで下さい」
「お詫びと言っちゃあなんだが、お嬢ちゃんと犬神さんの分を奢らせてはもらえんかな?」
「ですが…」
「それに、いつも恵が世話になってる礼もしたい。……あの子は、高校まで月に一度は体調崩していたもんだが、大学に入ってからとんと減ってなぁ。犬神さんが近くにいるおかげだと言っておったんだ」
おじいさんの眼差しが柔らかいものになる。高階君のことを話すとき、厳ついおじいさんの顔は優しくなる。孫のことが本当に大事なのだろう。
ここで断り続けるのも悪い気がして、私はおじいさんの顔を見返した。
「…それじゃあ、お言葉に甘えてごちそうになります」
ありがとうございます、と軽く頭を下げれば、おじいさんはほっとしたように笑う。
どれ、他にも好きなもの頼みなさいと、いそいそメニュー表を差し出すおじいさんを店主は苦笑して止めていた。
雪尾が戻ってきたのはそれから五分ほどしてからだった。
軽やかに揺れるしっぽは、どこか得意げだ。私の脚に擦り寄ってくるので、手を伸ばして毛並みを梳いてあげた。
「おかえり、雪尾」
しっぽは嬉しげに振られ、とんっと隣の椅子へと上ると冷めたミルクを平らげていく。一仕事終えてきた、と言わんばかりに白い水面に小さな波紋がいくつも立って減っていった。
おじいさんはしばらくそれを眺めた後、「ごちそうさん」とカップを置いて立ち上がる。
「さて、帰る前にもう一回恵の顔でも見てくるか」
「あ……あの、おじいさん」
店の奥に行こうとするおじいさんを、私は咄嗟に呼び止める。振り返ったおじいさんに、私は少し迷った後、口を開いた。
「高階君に、お大事にと伝えてください」
「わかった。ありがとうな、お嬢ちゃん……それに、白い犬神さん」
おじいさんが私と雪尾を見て、頭を下げる。一礼したおじいさんは、そのままお店の奥へと行ってしまった。
私は残りのミルクティーを飲み干し、すでに早々とミルクを飲み終わていた雪尾と共に帰路についた。




