29 白いしっぽとおじいさん(前編)
休日の午後、溜まっていた家事を終えて一息つけば、足元に白いしっぽが寄り添ってくる。
うろうろと足の周りを回って散歩の催促をしてくる雪尾に、私は「もうちょっと待ってね」と着ていたジャージを脱ぎ、ゆったりした生成り色のニットと紺色のデニムに着替える。
散歩だけならジャージでもいいのだが、今日は――
「帰りにシリウスに寄ろうか」
ベージュのピーコートを着込み、マフラーを巻きながら提案すれば、白いしっぽはぴんと跳ねて嬉しそうに左右に振られた。
駅近くにあるアパートを出て、公園の池廻り、近くの神社の階段といういつもの散歩コースを一時間ほど歩いた後、シリウスへ向かった。
黒い板金に『喫茶シリウス』と書かれた銀色の文字。狭い路地に入って、道標の煉瓦を辿って着いた先に見えるのは、緑と赤だ。二月の後半ともなれば椿が見頃になっており、艶々とした緑の葉っぱに上品な赤色の花が映えている。
焦げ茶色のウッドデッキを白いしっぽが駆け上がるのを追い、いつものように黒い木の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
聞こえてきた声は一つ分だった。
店内には、見覚えのある老夫婦や若い女性の二人組、本を片手に持ちながらコーヒーを飲む壮年の男性といったお客さんが見かけられる。
だが、白いシャツに黒いエプロンをつけて、いつも明るい笑顔で迎えてくれる青年の姿は無かった。
今日はバイトが休みなのだろうか。月曜日の午後は取っている科目の講義が六限までらしく、午後三時半を回るこの時間帯なら大抵いるのだが。
不思議に思いつつ、私はチェック柄のマフラーを外しながらカウンターの方へ向かう。
カウンターには、すでに先客がいた。
端の方に座っているのは、白髪を短く刈り込んだ中背の老人だ。
思わず目についたのは、彼が着物を着ていたからだ。紺色の丹前に白い縞の細帯を締めて、ぴんと背を伸ばして座っている。鷲鼻に太い眉、厳めしい顔つきをしており、じろりとこちらを見てきた。
不躾に見ていたのが気に障ったのかもしれない。一瞬緊張したが、私を見た老人は目をぱちりと瞬かせただけだった。
ふむ、と一人で頷いた老人は、カウンターの奥でコーヒーを淹れている店主に話しかける。何やら親しげな様子だ。店主の知り合いかと思いながらも、老人の三つ隣の席へと座った。
「いらっしゃい。ご注文はいつものでよろしいですか?」
眼鏡をかけた五十代くらいの店主は私を見て親しげな笑みを浮かべる。すでに顔なじみとなっており、覚えてくれているのだ。
「はい、ミルクティーを一つとホットミルクをひと…」
いつも通り二品注文しようとして、はた、と気づく。
三つ隣の席に座っている老人が、興味深そうにこちらを見ていた。一人で二つの飲み物を注文したことをおかしく思われただろうかと不安になったが、老人はにやりと笑っただけだ。
「へぇ、お前さんとこの犬神は牛乳飲むのかい」
「……え?」
目を丸くする私に、老人は掠れがちの低い声で続ける。
「ずいぶんと大きな犬神さんだな。真っ白ってのも珍しい」
老人の唐突な言葉に、私は混乱しながらも口を開いた。
「あ、あの……見えているんですか?」
「もちろん」
即答した老人の目は、私の足元をしっかりと見ていた。
老人の視線に気づいた雪尾は、そわそわと落ち着かなさそうにしっぽを揺らし、やがてこそりと私の足を盾にして隠れる。相変わらずの人見知りだ。
とは言え、雪尾は大きい。隠れきれずにはみ出てしまうしっぽに、老人は小さく吹き出す。
「こいつはまた恥ずかしがりやな犬神さんだ。可愛いとは聞いていたが、なるほど、確かになぁ」
厳つさが和らいだ老人は、笑いを収めあらためて私の方へと身体を向ける。
「初めまして、お嬢ちゃん。俺は高階薫だ。いつも恵が世話になっとります」
そう言って頭を下げた老人は、悪戯が成功した子供のような笑みを見せたのだった。
*****
「高階君のおじいさんだったんですね」
高階君の話では、おじいさんも『見える人』なのだと聞いていた。どうりで雪尾のことが見えるはずだ。高階君とは全然雰囲気が違うので、血縁者だとはわからなかった。
似ているというなら店主の方がむしろ高階君に似ている。そう思って店主の方を見やれば、茶葉をポットに入れていた店主がにこりと笑った。
「私は恵の伯父です。妹が恵の母親でして」
「そうだったんですか…」
高階君の血縁者二人を前にして、私は恐縮した。
「ええと……こちらこそ、高階君にはいつもお世話になっています」
居住まいを正して頭を下げれば、おじいさんと店主は視線を交わして「なるほどな」「でしょう?」と端的な言葉を発する。
「どうかしましたか?」
「なぁに、聞いた通り真面目な嬢ちゃんだと思っただけだ」
「ええ、恵からよく話を聞くんですよ」
「そ、そうなんですか…?」
高階君が、私の話を?
いったいどんな話をしているのだろう。
何だか気恥ずかしくなって俯く私に、ぱたぱたと白いしっぽが心配するように足を叩いた。




