03 白いしっぽと自己紹介
雪尾の機嫌がよい。
それもそのはず。今から向かうのは、雪尾のお気に入りの場所なのだ。
揺れる白いしっぽを目で追っていれば、雪で濡れた地面に足を取られた。慌ててブーツの底で地面を踏みしめて、転ぶのを防ぐ。
どうも足元がおろそかになっている。雪尾と同じで、浮かれているのかもしれない。
なぜなら私にとっても、その場所はお気に入りの場所になっているから。
見えてきた小さな看板に、しっぽの速度が上がる。
駆けだした雪尾の後を追い、私も早歩きで目的の場所へと向かった。
喫茶店『シリウス』は、勤務先の図書館と最寄り駅をつなぐ道の途中にある。
最初に見つけたのは雪尾だ。
よくよく見れば、路地の入り口にはちゃんと看板が掲げられていた。
建物の壁に張り付けられたA4サイズくらいの黒い板金に、銀色の文字で『喫茶 シリウス』と書かれている。文字の周りには青銀色に光る星が数個散りばめられて、地味だが上品な意匠だ。
幅1メートルもない路地の地面には、道標のための茶色い煉瓦が埋め込まれている。
進んだ先に広がるのは緑だ。冬の今は、ヒイラギの葉が青々しく、南天の赤色が映える。もっと寒さが深まれば、椿や山茶花が見頃になるという。
緑の中の煉瓦の道をいくと、黒に近い焦げ茶色のウッドデッキがある。屋根がついており、デッキには黒いベンチが置かれていた。
黒や焦げ茶色を背景にすると、雪尾の白いしっぽがより見えやすくなる。
追いついて、私はガラスのはめ込まれた黒い木の扉を開けた。白い漆喰と艶消しの黒い木材を基調とした店内。天井の造りは写真で見た古民家を思い出させた。吊り下がっている照明のランプシェードも和紙でできており、洋風の中に和風の雰囲気がある。
「いらっしゃいませ」
店内に入れば、青年の声が出迎えてくれる。
低すぎない、落ち着いた柔らかな声。白いシャツに黒いエプロンをまとった青年は、カウンターから出てきて、席へと誘導する。
青年は、私よりも頭一つ分背が高い。すらりと細身で、長い手足はしなやかだ。
茶色味がかった柔らかな黒髪は、爽やかなショートレイヤーで、緩く癖がついている。
細面の顔に、綺麗なアーモンド型の奥二重の目。目の色は明るい茶色だ。通った鼻筋も淡く色づいた唇も整っている。
まるでドラマで見る若手俳優のようだが、人懐っこい笑顔が整った容姿を店内に馴染ませていた。
いつもならカウンター席に座るのだが、今日は違った。
窓際にある二人掛けの席に案内される。私が青年を見上げると、彼は窓の外を指さした。
指の先を見やれば、窓枠の外に雪の塊がある。よくよく見れば、ヒイラギの葉が2枚と南天の赤い実が2個乗せられていて、雪ウサギらしきものになっていた。
作ったんです、と青年は少し得意げに言う。
可愛いけれど少し不格好な雪ウサギと、青年の子供っぽい一面に思わず吹き出してしまった。
この店に来るようになって、3週間が経つ。今日が4回目の来店だ。
青年とは、すでに顔馴染みになっていた。
まだ常連とは言い難いにも関わらず、顔を覚えてもらっているのは、他ならぬ雪尾のおかげだ。
青年は、どうやら私の犬神である雪尾の姿が見えているようなのだ。
まだちゃんと聞いていないが、最初に来店したときに雪尾用にミルクを用意してくれたり、その後もミルクをおまけしてくれたり、私の足元を目線で追ったりする様子からして間違いないだろう。
今日もまた、テーブル席についた私の足元を見ては顔を綻ばせている。
注文したミルクティーとホットミルクを青年が黒いお盆に乗せて運んでくる。ミルクティーを私の前に置き、ホットミルクを誰も座っていない向かいに置いた。
ごゆっくり、といつもならカウンターの方に戻ってしまうが、今日はまた違うようだ。
他にお客さんがいないこともあって、青年はお盆を持ったまま腰を屈めた。
「熱いから気をつけて下さいね」
青年が私と、何もない宙に向かって言う。
白いしっぽが、当然、というように一度振られる。それを見て青年はくすりと笑みを零した。
私は意を決して、青年に尋ねる。
「あの…見えているんですか?」
「はい」
もちろん、と即答されて、私は少し面食らった。
それ以上何と聞いてよいのやら、言葉に迷えば、青年の方から声をかけてくる。
「よかったら、名前を聞いてもいいですか?」
「あ、『雪尾』です。空から降る『雪』に、尻尾の『尾』で」
初めて自分の犬神を――白いしっぽを見たときのことを思い出す。
雪のようにきらきら光るしっぽがとても綺麗で、そのまま名付けたのだ。
自分の大切な、そして自慢の犬神の名前を他人に教えるのは、少し気恥ずかしく、だけど誇らしくもある。
照れをごまかすために、「ね、雪尾」としっぽに向かって私が話しかければ、青年は目を瞬かせて、「…ああ、そっちか」となぜか一人ごちていた。
「そっか、ええと、よろしく、雪尾さん。俺は高階恵です」
青年が名乗れば、白いしっぽがすくりと立ち上がり、青年の周りをぐるぐると二周した。強い力だったのか、青年がわずかによろめく。
「…よろしくって、言ってるみたいです」
「はい、ですね」
青年は苦笑してから、今度は私の方を見る。
少し照れくさそうに微笑みながら。
「あの……できれば、あなたの名前も聞いていいですか?」
「……あ」
そのとき、ようやく私は青年――高階君が最初の問いかけで私の名前を聞いていたのだと気づく。
頬を赤くする私の足を、雪尾の白いしっぽが呆れたように軽く叩いていた。