27 白い犬と白い手の彼
高階君は、白い手の人を見たことがありますか?
昼休憩のとき、彼女はそんなことを聞いてきた。
白瀬さんが勤めている市立図書館は、静かで落ち着くところだ。
図書館とは得てしてそういう場所だ、何を今さらと普通の人なら口を揃えるだろう。
しかしながら、自分にとっては図書館もまた騒がしい場所の一つであった。
人の集まるところには、人の目に見えぬものも集まる。
生まれつきそういう類のものを見てしまう目を持った俺には、大学の図書館で階段の暗がりに立つ人影や、棚の隙間から覗いてくる無数の目を捉えていた。
ところが、市立図書館はそういうものをほとんど見かけない。まったくいないわけではないが、やけに大人しくて、悪意を持って生者を襲おうとする霊達がいない。
おそらく、白瀬さんの側にいる犬神――雪尾さんが図書館にいるからだろう。
大きな白い狼の姿をした雪尾さんは、図書館の中をちょくちょく散歩している。
とっとっと軽い足取りで階段の手摺の上を進み、書棚の上に飛び移ったり、一階に飛び降りてカウンターにいる白瀬さんの足元に潜り込んだりしている。
そして雪尾さんを恐れている影達は、彼が近づく度にさあっと影の中へと引っ込んでいくのだ。
雪尾さんの毎日のパトロール(?)のおかげか、この図書館は非常に静かで、俺にとっても過ごしやすい空間になっている。
そんな折、雪尾さんを恐れない『彼』を見かけた。
一見すると、普通の青年のようだった。
長袖の白いワイシャツ、黒い細身のズボン。
さらりと流れる少し長めの黒髪。
白い肌、節の目立つ細長い指。
身長は俺と同じか、少し低いくらいだろうか。
人気の無い席に座って本をめくる姿は、図書館において何ら違和感のない姿のはずだった。
だが、俺は一目で『彼』が生きている人間ではないと気付く。
ああ、『生者』じゃない。
人間臭さを全く感じさせない。霊のような暗い影もない。
言うならば幻に近く、だけど確かにそこにいる、不思議な人。
よく見かけるにも関わらず、『彼』の顔は一度も見たことはない。
見るのは大抵後ろ姿か、黒髪がかかる横顔で、不思議と正面で向き合うことは無い。
シャツの袖から覗く『彼』の手が、やけに白いのが印象に残っていた。
彼女が尋ねる白い手の人というのは、間違いなくその『彼』のことだろう。
「専門書コーナーの奥の方にソファがあるでしょう?あそこに座っているのを前に見かけたんです」
確かに、あそこは『彼』のお気に入りの場所である。『彼』が好んで座る席は、人の目に着かず、かつ心地の良い場所が多い。
「……見たことはあります。白瀬さんにも見えるんですか?」
「少し。手だけしか見たことないんですけど」
そう言って、照れ臭そうに彼女ははにかむ。
何だろう。
その表情に、少しだけ、もやっとした。
「……高階君?」
白瀬さんが首を傾げてこちらを見てくる。どうかしましたか、と心配そうに聞いてくる彼女に、俺は急いで笑顔を取り繕った。
「いえ、何でもないです。……俺が見たのは、白いシャツを着た……おじさんっぽい人の霊でしたよ」
「そうなんですか」
霊を見ることができない彼女は、俺の言葉にあっさりと頷いた。
ちりりと胸の奥がざわめく。さりげなく彼女から目を逸らす俺を、足元から青い目がじーっと見上げてくる。
小さな嘘を付いたことを責められているようで、妙に落ち着かなかった。
*****
「……何であんなこと言ったかな、俺」
人気の無い専門書コーナーの書棚の前で、大きな溜息を零す。
図書館にいる、白い手の人。おそらくは若い――自分と同じか少し年上くらいの青年なのに『おじさん』と言ってしまった。
白い手の人――自分以外の男の人のことを話しながら微笑む彼女に、少しだけもやっとした気持ちになって、つい嘘をついてしまったのだ。
いくら若い男とはいえ、相手は人間ではないのに。
何故妙なやきもちを焼いてしまったのか。
嘘を付いたことで余計にもやもやとした気分になってしまった。
ちくちくと良心を刺したのは、その後の雪尾さんの視線だ。俺の嘘に気づいた雪尾さんのまっすぐな目線が居た堪れなくて、昼休憩もそこそこに図書館に戻った。
課題のための文献探しにも身が入らず、目的の本はなかなか見つからない。
設置されているパソコンで検索を掛けて貸し出し中になっていないことは確認したのだが、付けられた番号の棚には見当たらなかった。
館内にいる誰かが借りて読んでいるのだろうか。今日はどうにもついていない。
しゃがみこんだまま再び溜息をつけば、ふと視界に誰かの足が映った。考え事で頭がいっぱいになっていたせいか、足音も気配も感じなかったので少し驚く。
黒いズボンに、革靴。
どこかで見たような――
思い出す前に、隣に立った人の声が振ってくる。
「…誰が『おじさん』だって?」
少年と青年の間の、軽やかな声。
くすりと笑いを含んだその声に顔を上げようとした矢先、視界が翳った。ずし、と頭の上に何か重いものが押し付けられている。
「わっ…」
「はい、探し物」
穏やかな響きの後、頭の上に乗ったものがぐらりとバランスを崩す。落ちそうになったそれを慌てて受け取ると、自分が探していた本だった。
はっとして辺りを見回すが、ついさっきまで隣に立っていた人影はいなくなっている。
本棚の奥――隣の列の方から足音がしたので、立ち上がって本の隙間から向こうを窺う。白いシャツ、黒い髪の人物が流れるように歩いているのが見えた。
隙間から覗いた薄い唇が、ふっと笑みの形を作る。
「しのぶれど、色に出でにけり…かな?」
聞き覚えのある短歌の上句の後に聞こえてきたのは、「命短し恋せよ青年」というこれまたどこかで聞いたことのある歌の替え歌だ。
口ずさまれる小さなメロディーは遠ざかり、やがて静かに消えていく。
「……」
追いかける気は無かった。
追いつける気もしなかった。
しのぶれど――って、そんなに顔に出やすいのだろうか、俺は。一応ポーカーフェイスには少し自信があったのだが。
くそー、と赤くなった頬をごしごしと両手で擦っていれば、馴染みのある気配と視線を感じ取った。そちらを見やれば、そろりと棚の向こうから顔を出す雪尾さんと目が合う。
たったっと近づいてきた雪尾さんは、ドンマイとなぐさめるように俺の足に前足を置いた。
「……ありがと、雪尾さん」
苦笑しながら、俺は白瀬さんにちゃんと正直に話そうと決めた。
*****
その日の帰る前、白瀬さんに『彼』が若い青年であることを告げた。
彼女は数回目を瞬かせ、「そうなんですか」と変わらずに笑顔で答える。
「一度声を聞いたことがあって。若い人なのかと思ってたら、当たってたんですね」
聞き間違いじゃなくてよかった、とほっとしたように笑う彼女は、俺が嘘をついたことは気にしていないようだった。
よかったのか、悪かったのか。
何にせよ、それからまた図書館で『彼』とすれ違った折に「真面目だなあ、君」と笑い混じりに言われた。
いったいどこで聞いていたのやら。地獄耳な『彼』に「すみませんでした」と謝れば、軽やかな笑い声が返ってきたのだった。




