26 白いしっぽと白い手(後編)
やあ、今日も見回りかい?
君が来てから、ずいぶんとここは静かになったよ。
おかげで本を読むのに集中できる。
さあ、今日は何を読もうかな。
*****
翌日、ハイネの詩集は元の場所にきちんと返されていた。
代わりに、同じドイツの作家であり詩人であるゲーテの詩集が一冊、抜かれている。
――あの人が借りていったのかな。
白いシャツに包まれた腕に、白い手。
誰もいない席で本を読むその人に会ったのは、つい先日のことだ。と言っても、直に言葉を交わしたわけでもなく、後ろ姿をほんの少し見ただけだが。
それからというもの、私は時折、館内で彼の姿――白い手と白いシャツの後ろ姿を見かけるようになった。
ハイネ、ゲーテ。
ボードレールにヴェルレーヌ。
高村光太郎、室生犀星。
李白に杜甫。
彼がいるであろう席に置かれた本の著者を見て、古典文学や詩集が好きなのかと思っていれば、次の日はホーキング博士の宇宙論の本、その次の日は世界の民話インドネシア編、さらに翌日には日本の洋館100選が置いてあった。
彼の読書の幅は広いらしい。
というより、あまり人に借りられていない本を読んでいるようだ。新刊コーナーには姿を見せず、奥まった棚に仕舞われた本達を取り出し、人気の無い場所で読書に耽っているようだった。
ぱらり、ぱらりと一枚ずつ丁寧にめくられる本のページ。
席を立つときにはしおりを挟み、本を必ず閉じて、開きぐせがつかないようにしている。
彼の正体はわからないままであるが、本が好きで大切にしてくれているのはわかる。
いつかちゃんと会えたら嬉しいな、と思いながら私は業務に励んでいた。
その機会は、ほどなくやってきた。
地下の書庫で利用者のリクエストした本を探しているときだ。
「あ…」
書棚の奥に何かの気配を感じ、黒い影がうずくまっているのが私の視界に映った。
私はすぐに視線を逸らして、何事も無いように本を探すことに集中する。薄暗い第三地下書庫は、滅多に人が出入りしないせいか、こういうものが溜まりやすいようだ。
いつもなら雪尾が追い払ってくれるのだが、今日はあいにくと側にいない。呼べばすぐに来てくれるだろうが、このくらいなら自分一人でも対処できるだろう。
とにかく知らぬふりをして、私は手元の紙を見ながら目的の本を探した。
一冊目、二冊目とすぐに見つかり、三冊目も見つける。少し高い位置にあるその本に手を伸ばし顔を上げたときだった。
黒い影が、棚の上から私を見下ろしていた。
「っ…」
人の顔のような輪郭。目の位置と思われる暗闇の部分から、強烈な視線が私に降り注いでいる。
全身がぞわりと総毛立った。幼い頃に心に植えついた彼らへの恐怖が蘇えり、頬が強張る。
目が合ってしまった。
気づかれた。
雪尾、ゆきお――
本に届いた手が震え、無意識に足が後ろに下がった。
バランスを崩した私につられ、指先にかかっていた本がずるりと引き出される。同時に、周りの本も引っ張られて斜めになった。
本が落ちてくる。
あの黒い影と共に。
私はくるであろう衝撃を恐れ、咄嗟に目を瞑った。
しかし、何も起こらない。
本も落ちてこないし、影の気配も無くなっている。
私がそっと目を開ければ、薄闇の中に白いものが見える。
雪尾かと思ったが、違った。
それは、白いシャツに包まれた人の腕だ。
私の背後から伸ばされた長い腕は、節の目立つ白い手で、落ちてきそうだった本を押さえていた。つ、と軽く押して本を棚に戻すと、白い手は私が取ろうとしていた本を一冊だけ抜き出す。
「どうぞ」
少年の様な、青年の様な。
軽やかな声が私の耳元で聞こえた気がした。抜き出された本は、私が抱えていた本の上にぽんと重ねられる。
そのまま、腕は後ろに引かれて視界から外れる。
私は慌てて後ろを振り返った。
しかし背後にはそそり立つ書棚しか無い。白いシャツも手も、見当たらなかった。
そもそも地下書庫の棚の間隔は狭く、私の後ろには人が立つスペースなど無いし、誰かが近づけばすぐに気づく。それに地下書庫に入れるのは許可のある図書館職員だけで、今は私一人しかいないのだ。
ほう、と詰めていた息が口から零れる。
恐怖が去った今さらながら、心臓がどくどくと脈打っていた。何度か呼吸をして鼓動を落ち着かせながら、考える。
やはり彼は、霊の類なのだろうか。
だけど、もう怖いとは思わなかった。
いつの間にか消えた黒い影。彼が追い払ってくれたのだとわかる。
落ちそうだった本を押さえてくれた白い手も、穏やかな声も、ただ優しかった。
ぼんやりと佇む私の脚に、白いものが触れる。
馴染みのある柔らかな毛が心配するように寄せられてきて、私は「大丈夫」と答えた。
あの人が、助けてくれたから。
「……ありがとうございます」
誰もいない空間に向かって。
だけどきっといるであろう誰かに。
私は微笑みながら感謝の言葉を伝えた。
*****
ごめんね、君の出番をとっちゃって。
ちょっと危なそうだったから、つい。
ふふ、大丈夫。
心配しなくても、君から彼女を取る気はないよ。
ああ、でも。
いつか、ちゃんと話せたら嬉しいかな。
いつか、ね。
雪尾さんの出番が少ない…。
この頃は高階君に興味を持って観察している時期なのでした。




