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25 白いしっぽと白い手(前編)


 ああ、今日も来てくれたんだ。

 じゃあ頼んでもいいかな。

 うん、読みかけだったハイネの詩集。

 ふふ、ありがとう。僕はここで待ってるね。





*****





 私が勤める図書館には、不思議な噂がいくつかある。


 

 曰く。


 開館前の準備中、白いシャツを着た人物が館内を歩いていた。


 書棚に並べてある、とある作家の全集が必ず一冊だけ抜けている。


 本のページをめくる音がするのに誰もおらず、読みかけの本が置いてある。そして気づいたらその本が元の場所に返されている。


 ペット禁止の図書館内で大きな白い犬を見かけた……というのは、まあ、私の犬神の雪尾のことだが。


 

 七不思議には物足りない、気のせいかもしれない、ちょっとした不思議な噂達。

 そんな不思議を私が体験したのは、ある冬の日の昼下がりのことだった。







 昼休みを終えて、私は配架作業を行っていた。

 返却された本を棚に戻していく途中、二階の専門書コーナーの奥の席で、誰かが本を読んでいるのに気づく。


 その席は背もたれが大きく作られた一人掛けのソファで、左の肘掛けが壁に接するように置かれている。

 専門書コーナーの奥にひっそりと置かれたソファは、利用客にあまり知られていない。だが、奥まった場所にある割には、窓から木漏れ日が差し込む気持ちのよい場所だ。

 図書館内でも一際ひときわ静かで、そこだけ空間が切り離されたような雰囲気があり、私も気に入っている場所である。


 私がいる位置からは背もたれしか見えないが、ぱらりと本のページをめくる音が時折聞こえる。

 肘掛けには白い袖に包まれた腕が置かれていた。細い指に節の目立つ大きな手は、男性のもののようだ。


 あの場所を知っているなんて、きっと常連さんなのだろう。


 彼の邪魔にならぬよう静かに作業を続けていたが、ふと、窓から入る日差しが傾いてきたことに気づく。

 あのソファの横の窓からも明るい光が差し込んでいた。本を読むには少し眩しいかもしれない。

 ブラインドを半分下ろそうとソファの近くに寄ったときだった。


「…あれ?」


 ソファには、誰もいなかった。

 肘掛けを見るが、白い手と袖は影も形もなくなっている。


 先ほどまで居た常連さんはどこにいったのだろう。いつ席を立ったのか、まったく気づかなかった。

 それとも、見間違いだったのか。

 だが、ソファの上には今まで誰かが読んでいたかのように、一冊の本が置かれていた。


 屈んで手に取り、ひっくり返して本の表紙を見る。


「ハイネ詩集…」


 ハインリヒ・ハイネ。

 確かドイツの詩人だ。大学の文学史で習い、一度詩集を読んだことがある。

 小難しい言葉がなくて読みやすく、綺麗な響きの詩はロマンチックで軽やかで、だけど皮肉だったりやるせなかったり。そんな印象が残っている。


 平日の昼過ぎ、利用客が少ない時間帯。

 人気のない一角に、しんと静けさが降りる。 


 私の頭に浮かんだのは、図書館の不思議な噂だ。

 

 誰もいない席に置かれた本。

 ページをめくる音はするのに、誰もいない――


「まさか、ね…」


 想像して鳥肌が立ちそうになった腕を擦る。

 幽霊の類なのだろうか。

 でも普通の人の手に見えたし、怖い感じはしなかった。


 とりあえず、本を置いたままにするか、棚に戻すか悩んでいたときだった。

 いつの間に側に来ていたのか、足下で白いしっぽが揺れている。


「雪尾?」


 雪尾は私の足の周りを回り、本を持つ腕をしっぽでぱたぱたと叩く。


「…持っていっちゃ駄目ってこと?」


 私が首を傾げると、しっぽは叩くのを止める。いつものようにゆったりと左右に揺れたところを見ると、どうやら当たりらしい。

 私は雪尾の言う通りに、本をソファの上に戻した。


 噂では、本は元の場所に返されていると聞く。

 ならばきっと、この本を読んでいた白いシャツの人は、ちゃんと図書館のルールを守って利用してくれている人、もしくは霊なのだろう。


 読書中邪魔して悪かったかな、と思いながら、私はブラインドを半分下ろして、誰もいないソファに向かって軽く頭を下げた。

 配架作業に戻った私の耳に、再びページをめくる音が届いたのは間もなくのことだった。





*****




 ああ、とても素敵で、楽しい時間だった。

 うん。詩集もだけど、あの子も。

 あの子が、君の片割れなんだね。


 君にも世話をかけたな。 

 今日のところは、この本は自分で返しておくよ。

 最近、君に頼んでばかりだったし。


 ふふ、また会ったらよろしく頼むよ。

 それじゃあね、ユキオ君。


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