19 白いしっぽと姉と妹(後編)
見下ろすカップの水面は淡く濁り、私の表情を映すことはない。
だが、きっと情けない表情をしていたのだろう。テーブルに身を乗り出した姉の奈緒が、そっと手を伸ばしてきた。そして――
ばちっ、と額に衝撃が走った。
「っ…!?」
鋭い痛みに顔を上げれば、姉の右手が目の前にある。
中指の爪を親指の腹で押さえた、犬の顔のような形を取るそれを構えながら、姉がにっこりと微笑んだ。
「もう一発、いっとく?」
淡い桜色のマニキュアが塗られた爪がきらりと光る。
姉の中指にぐぐっと力が籠もるのを見て、私は慌てて首を横に振った。くわんくわんと意識が揺れるのは、急に首を振ったせいではなく、額の衝撃が大きかったせいだ。
相変わらず威力のあるデコピンだ。
小さい頃に罰ゲームで敗者に繰り出される姉のデコピンは、兄のものよりも痛かったことを思い出す。
じんじんと痛みが湧いてきて涙目になる私を、手の構えを解いた姉は呆れたように見てくる。
「まったく…。相変わらず馬鹿ねぇ」
「ば、ばかって…」
「『取るに足らないつまらないことで悩んでるんじゃないわよこの馬鹿』って意味よ」
丁寧に説明した姉は、腕を組んで溜息をつく。
「あんたが落ち込むと鬱陶しいんだもの」
「鬱陶しい…」
何もそこまで言わなくても、と恨めし気に目線を上げる私に、姉は手を横に振った。
「あんたもだけど、雪尾もよ。ただでさえ大きくて鬱陶しいのに、しょんぼりされちゃかなわないわ」
「雪尾が…?」
見下ろせば、足首にそっとすり寄る白いしっぽは、確かに力が無くて落ち込んでいるようだった。
「本当、一心同体っていうか……まあ、そういう風に生まれついたから仕方ないけどね」
姉は苦笑して、改めて私の方を見つめてきた。
「あんたに能力が無いのはあんたのせいじゃないでしょう。雪尾のせいでもないわ。何を負い目に思う必要があるの」
「……」
「あなたの負い目は、あの子に悪いって思ってるからよね。見合いをすることの何が悪いの?決まった相手と結婚させられるから?それが不幸だと思ってるの?――だったら、私のことも不幸だと思ってるわけ?」
「っ、それは…」
私がはっとして顔を上げれば、姉と目線が合う。
静かな眼差しでまっすぐにこちらを見つめながら、姉は言葉を続けた。
「私は、幸せよ。幸せになるために、それなりに頑張ったもの」
「姉さん…」
「確かに堅苦しくて仰々しい、頭でっかちな人もいる家だけど、自由がないわけじゃないし、不幸でもないわ。少なくとも、私は相手が夏貴でよかったと思うし、子供達も生まれてきてくれて、幸せだわ」
「……」
艶やかに、姉は微笑む。
それは白瀬家の長女として、そして大神本家の嫁として、しっかりと歩んできた彼女の強い意志を湛えていた。
私は、無意識のうちに見合い云々を不幸と決めつけていた。私の負い目は妹に対する憐れみでもあり、勝手に可哀想なのだと思っていたことから生まれていた。
そうじゃない。
妹の幸せを、自分が決めてどうする。
慢心していた自分が恥ずかしい。羞恥に耳が赤くなり、情けなさに項垂れる。
肩を落とす私に、姉はふっと息をこぼした。
「……って、本当なら莉緒に説教しようと思ってきたんだけどね」
あんたに説教しちゃったわ、と姉は軽く肩を竦めてみせる。
「だいたい、莉緒は我慢が足りないのよ。犬神が小さい?私なんか開口一番『あなたの犬神に興味はありません』って言われたのよ?腹が立つでしょう?」
「そうだったの…?」
「そうよ。もちろん言い返してやったわ、私もあなたの家柄に興味はありませんって」
「……うわあ…」
夏貴さんと姉が向かい合って静かな火花を飛ばしている場面を想像すると、空恐ろしい。
そんな出会い方だったのかと驚く以上に、よくもそれで仲睦まじい夫婦になれたものだと感心する。
結局似たもの同士で気があったのよ、と姉は言うが、そこまで行き着くのに幾たびも衝突はあったのだろう。衝突しながらも相手を知り、理解するために、姉は努力を惜しまなかった。
昔と変わらず努力家で、頼れる自慢の姉の姿が、そこにあった。
「そもそも、莉緒の見合い相手を探すのに、私と達兄がどれだけ苦労したか!私だって莉緒が可愛いし、幸せになってもらいたいもの。できるだけ静かで落ち着いた性格で、犬神にこだわらない相手を探して、あらかじめ達兄が面談して吟味して……」
すでに説教モードから愚痴モードへと変わっている姉を見つめながら、私は思う。
いつか私も、姉のように――妹に慕われる姉になりたいと。




