02 白いしっぽと雪の足跡
今朝は一段と冷え込んだ。
住んでいるアパートの三階のベランダに出てみれば、冷たい空気が頬を刺激する。息を吐くと、小さな白い雲が生まれては霧散した。
アパートの裏手にある空き地を見下ろせば、今年初めての雪が薄く地面を覆っている。
「雪積もってるね」
一人佇むベランダで何もない空間に話しかければ、視界の端で白いしっぽが揺れた。
たんっ、と軽い音を立てたベランダの手すりから、白い尾がひらりと宙に舞い降りる。
数秒後、眼下の白い地面に小さな黒い点が生まれる。薄い雪の表面を何かが踏みしめたせいで雪が溶け、下の地面が覗くせいだ。
とっとっ、とっとっ、とリズミカルに小さな点は増えていく。
雪の色に溶け込んだ白く長いしっぽが、ふりふりと楽しげに振られているのを見ながら、私はベランダの手すりに積もった雪を払い落とす。
しかしふと、その手を止めた。
幅15センチ以上ある手摺。
そこに薄く積もった雪の上にくっきりと残っていたのは、大きな獣の足跡だった。
懐かしさを覚え、私はその部分だけを残して雪を払った。
私が『雪尾』に気づいたのは、6歳のときだった。
犬神憑きの家系に生まれたにも拘らず、霊を見る力がほとんど無い私は、親族の中で微妙な立場にあった。
直接に言われることは無くとも、肌に伝わってくる。
大人達の可哀相なものを見る目つき。
気の毒に、残念だ、とひそひそ聞こえる声の端々。
言葉をよく知らぬ幼い子供であっても、空気は敏感に感じ取れる。
違和感を覚える私に、決定打を突きつけたのは三つ年下の妹だった。
『おねえちゃん、みえないの?』
悪気など全くない、無邪気な一言。
不思議そうに問われることが、私の方こそ不思議で、困惑した。
何が、見えないのだろう。
何が、見えているのだろう。
そのとき、ようやく私は自分が両親や兄弟達と少し違うことに気づいた。
真剣な顔の両親から犬神憑き云々の説明を受けたものの、私は家族と自分が違うことにショックを受けていた。
犬神憑きの家の女子ならば、犬神が共に生まれて側にいると言われたが、私にはわからない。
姉にも妹にも犬神はすでにおり、名前も付けているらしいというのに。
私の側にも、犬神はいるのだろうか。
だったらなぜ、私に見えないのだろう。
……見えないのなら、いないのと一緒じゃないか。
そんな結論に達した頃、私は家族を避けて一人で過ごすようになっていた。
両親と顔を合わせることも、兄や姉妹と遊ぶのも、気が引けていたのだ。疎外感や孤独感に苛まれ、彼らと話すことを避けていた。
ある寒い早朝、早々に目が覚めた私は、姉妹を起こすことをせずに、一人で庭に出た。
雪が庭一面に積もっているのに気づいたからだ。
去年までは、兄も姉妹も叩き起こして全員で雪にダイブして跡をつけたり、雪合戦に興じたりしていたが、今年はそんな気分になれなかった。
赤い半纏と長靴をまとい、まだ日が昇り切らぬ薄暗い中、白く染まった庭へと降りる。さく、と小さな足が雪に埋もれた。
さく、さく、と軽い音を立てながら、私が無心に足跡を付けていたときだ。
とっ。
さくっ。
とっとっ。
さく、さく。
耳に届いた軽い足音と、雪が踏まれる音に、顔を上げる。
見れば、真っ新だった白い絨毯に、足跡がついていた。
私のではない。
私の掌よりも大きなそれは、獣の足跡だった。
猫にしては大きい。犬だろうか。
でも、この家には犬も猫もいない。
不思議に思ったとき、私の目の前で、とっ、と音がした。
雪がふわりと散る。
私の周りを、小さな音を立てながら、何かが回る。
大きな獣の足跡が、私の足の周りで円を描いていた。
「……そこに、いるの?」
私が呆然と呟いた時、朝日が庭に差し込んだ。
きらりと何かが光り、白いものを浮かび上がらせる。雪のように白く輝く毛が、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
「しっぽ…?」
白い、しっぽ。
思わず手を伸ばせば、柔らかな毛が指先に触れた。
「っ…」
ああ、これが――私の、犬神だ。
直感的に、わかった。
見えなくても、ずっとそれは側にいた。
ずっと一緒にいて、私が気付くのを待っていた。
白いしっぽは、嬉しそうに左右に振られて、私の周りを何度も回った。
地面の雪が朝日に浴びて溶けていく中、白いしっぽは消えることなく、それからずっと私の側にある――
昔を思い出していると、手すりに残っていた雪が落ちた。
はっと我に返れば、いつの間に戻ってきたのか、白い尾が私の側で揺られていた。
雪で濡れたのか、冷たい滴が飛んでくる。
「冷たいよ、雪尾」
文句を言いながらも、私の口元は笑んでいた。
今日は温かいミルクを用意しようと思いながら。