18 白いしっぽと姉と妹(前編)
膝の上で握った拳。
スカートの下の足元では、白いしっぽが巻き付くように寄り添っている。時折、しっぽの先が、慰めるように足の甲を撫でてきた。
「――緒ってば。こら、聞いてるの?注文は何にする?」
姉の奈緒の声に、私ははっと顔を上げる。
差し出されていたメニュー表も見ずに、反射的に「ミルクティー」と答えると、テーブルの傍らに立っていた店主の男性が穏やかに頷いた。
「はい、いつものですね」
「は、はい…」
「私はウィンナーコーヒーで。それと、ホットミルクもお願い」
「かしこまりました」
姉が三人分の飲み物を注文しても、店主は不思議そうな顔一つしない。私がいつも雪尾と合わせて二人分頼むからだろう。
一礼して去る店主の後ろ姿を見やっていた姉が、店内を見回した。
「いい感じのお店ね。静かで、落ち着いているわ」
「うん」
「常連なの?」
「うん」
「……ちょっと。暗いわよ、あんた」
姉は呆れたように息をつき、お冷やのグラスを手に取った。
莉緒を追いかける高階君の姿が見えなくなった後、姉は「…で、店ってどこ?」と私の腕を掴んで駅前から移動した。
途中まで促されて道案内していたが、看板が見つかれば姉の方が私を引っ張って店に連れていく。初めて入る店なのに躊躇はなく、むしろ私よりも慣れた様子でテーブル席にさっさとついたものだ。
水を一口飲んだ姉は、私の足元をちらりと一瞥した。
「それにしても…相変わらずあんたにべったりね、雪尾は」
姉の声に、雪尾はびくっとしっぽを震わせた。
あからさまな反応に、姉は猫のような目をにんまりと細める。肉感的な唇の端を釣り上げて、嫣然と笑った。
「うふふ、そして相変わらずねぇ、その態度。雪尾ってば、なんでそんなに私を怖がるのかしら?」
「……」
それはたぶん、まだ小さい頃の雪尾に「もっと犬神らしく堂々としなさい!」だの「霊を怖がってどうすんの!」だのと数々の荒療治をしたうえ、「シット!ダウン!ステイ!」と最終的に鬼トレーナーとなって、雪尾を厳しく躾たからだと思う。
おかげで雪尾は犬神としての力の使い方を覚えたのだが、スパルタ教官の姉にはすっかり苦手意識を抱いているようだ。
ぷるぷると怯える白いしっぽが、私の足の後ろに丸まって隠れる。震える柔らかな毛が足に触れてくすぐったい。
怯える雪尾に、姉はくすりと吹き出して、口に手を当ててころころと笑った。
「あー、おかしい。でかい図体してるのに気が小さいんだから」
「姉さん…」
「あら、本当のことじゃない。そんな顔しないの。それに、ちゃんと雪尾の牛乳も頼んであげたじゃないの」
おごってあげるわよー、感謝なさーい、と姉は猫撫で声で雪尾に向かって言う。
もっとも、それで雪尾が絆されるわけもなく、白いしっぽは、きゅうっとますます丸まってしまった。
姉に怯える雪尾に、私は不謹慎ながらも口元を緩めてしまう。
それを見て、姉が表情を和らげた。少しは明るくなったかしら、と呟くところを見ると、今の流れは私の気を紛らわせようとしてくれたらしい。
姉の気遣いに、私はふっと息を零す。雪尾には悪いが、確かに気は紛れた。
「……姉さんは、一人で来たの?」
「ええ。子供達は家で留守番。夏貴に任せてあるわ」
夏貴さんは、姉の夫である。
犬神憑きの本家の次男で、繊細で綺麗な顔立ちをした、一見優しそうな人だ。だが、その本質はサド気質の姉に近く、さらりと毒舌をかまし、気に入らない相手には容赦ないそうだ。
そんな彼も子供には甘いらしく、今年4歳になる娘と2歳になる息子を可愛がっている。
「紗織ちゃんも瑞貴君も元気?」
「元気よ。元気すぎてこっちの体力が追いつかないくらいだわ。たまに吹雪が相手してくれてるから助かってるけど」
「そういえば、吹雪は?」
私は姉の傍らをじっと見つめる。
もちろん、見えることはない。
姉や妹の犬神はおろか、白瀬家で一番強い当主の犬神の姿も、力の無い私の目には映らないのだ。
見えるのは、自分の犬神である雪尾のしっぽだけ。
私の探す目線に、姉は軽く手を振って否定した。
「吹雪も留守番よ。私の都合で連れ出すわけにはいかないもの。もう『白瀬』じゃなくて『大神本家』の犬神になっているんだし」
「そっか…」
私は曖昧に呟きながら、結婚して犬神憑きの本家である『大神』の姓になった姉を見やった。
長いストレートの黒髪を後ろできっちりと結わえ、ぴしりと背筋を伸ばして座る姉の姿は美しい。
シルクブラウスにシンプルなカーディガン、膝丈のフレアスカート。どれも体に程良くフィットして、姉の肢体をより美しく見せる。身につけたアクセサリーは小粒だが、繊細な意匠で数十万は下らないだろう。
装いも佇まいも、いつも上品にしている姉。本家に嫁いだことで、さらに気品に溢れた魅力的な女性へとなっていた。
本来なら、姉はこうして一人で外に出歩くことも難しい立場なのだ。
自分が兄に連絡したことで、今回の件に巻き込んでしまったことを今更ながら反省する。
「……ごめん、姉さん」
「何であんたが謝るのよ」
「だって、来てくれたのに、こんなことになって…」
「あのねぇ…何でもかんでも自分のせいにするなって、前にも言ったでしょうが。謙虚通り越して卑屈よ、それ。大体、兄姉に遠慮するなっての」
呆れたように言う姉の言葉は、さくりと軽く私の心に刺さる。
内容は厳しいが、口調は私を責めるものではなかった。
「悪いのは莉緒に決まってるでしょうが。見合いは抜け出すわ、父さんや母さんや達兄に心配かけるわ、あんたの家に押し掛けるわ、人の話は最後まで聞かないわ」
一息に言い放った姉は、私の方へ目線を寄越してくる。
「……あんた、『莉緒は家にいるから探さないで、そっとしておいて』って、達兄に頼んだらしいわね」
「……」
「まったく。毎度毎度早合点しちゃうんだから、あの子は。もう少し落ち着きってものを学ぶべきだわ」
やれやれと姉が溜息をついたところで、視界の端に店主がお盆を持って近づいてくるのが映った。
注文していた品がテーブルに並び、しばし私も姉もそれぞれの飲み物を堪能する。
ポットから注いだ熱い紅茶に、砂糖とミルクを落として混ぜる。肌色よりも少し濃い、柔らかな色合いになったミルクティーを一口。いつも通り美味しいのに、いつもみたいにほっとしない。
ちびちびと遅いペースで口をつける私に、姉がぽつりと言った。
「……莉緒は、あんたに甘えてるのよ。あんたが、あの子を甘やかすから」
「それは……」
「あの子に負い目を感じているから?」
「……」
姉の言葉に、私は口を噤む。
図星だったからだ。
*****
私は犬神憑きの家に生まれながら、例外的に霊を見る力が無い。皆無ではないが、ほとんど見ることができない。
しかし妹は、姉と同様に能力があり、特に優れた目を持っていた。
元々、昔から白瀬家の女子は犬神憑きの家に人気があった。その姓の如く、白い犬神を持って生まれる可能性が高いからだ。
白い犬神は、犬神の中で珍しく、最も美しくて強いと言われている。その為、白瀬家の女子は成人前から見合いを勧められ、将来は本家か分家に嫁ぐことがほぼ決まっていた。
実際に姉も、二十歳前には本家との見合いを行って婚約し、大学卒業後はすぐに嫁いだものだ。
そしておそらく、妹もそうなるのだろう。
「……」
能力の無い私は、本家からも分家からも見合いを強要されることはなく、簡単に家を出ることができた。
自分の行きたい道に進み、将来を選び、自由になれた。
だけど、莉緒は自由に選ぶことはできない。
白瀬の家に生まれた女子として、周囲の期待を背負い、生きなければならない。
私に能力が無いことがわかったとき、家族を除いた一族の皆が落胆した。その後に生まれた妹には、私の分まで多大な期待がかかっていた。
莉緒が自由を望んだとしても、私は彼女の力にはなれない。彼女を自由にすることはできず、彼女の助けにはなれない。
家を出たとしても、私も犬神憑きの、白瀬家の者であることに変わりはないからだ。
家の繁栄を妨げることは許されず、ましてや能力無しの厄介者である以上、大人しくしているしかない。
私は、私が背負えなかった分の業を背負う妹を、ただ見守ることだけしかできないのだ。
それが、私の妹に対する負い目だった。




