17 白いしっぽと突然の訪問者(後編)
ふと意識が覚めると、何か焦げた臭いが鼻についた。
目を開けて身を起こせば、ぼやけた視界の向こう、廊下に備え付けられキッチンに人影が見える。
「わっ、やば、焦げた…!」
焦った声。
がちゃ、がちゃんと何やらぶつかる音も聞こえる。
誰が何をしているか、すぐにわかった私が苦笑する隣で、布団にできた二つの大小のくぼみは、まだ静かに寝息を立てていた。
朝食は味噌汁とご飯、焦げた卵焼きとウィンナーだ。
妹の力作に、私はしみじみと呟く。
「まさか莉緒が、料理作れるようになっていたなんて…」
「ちょ、ひどい!一応今は自炊しているんだからね。……中学生のときは、まあ、けっこうひどかったけどさぁ…」
「あはは、ごめん、冗談だよ。ありがとう」
いただきます、と言えば、妹はほっとしたような笑顔を見せた。
味噌汁の油揚げが10連の短冊になっていたり、卵焼きがしょっぱかったりしたものの、朝ご飯はおいしかった。一人暮らしをするようになってからというもの、誰かが作ってくれるご飯は嬉しく、とても有り難い。
妹も実家のある県内の大学に入って、3年目でようやく一人暮らしを許され、今は大学近くのアパートで自炊しているそうだ。どうりで、あれほど苦手だった料理が上手になっているはずだ。
実家の味によく似た味噌汁を啜りながら、私はしみじみと妹の成長に目を細めた。
ご飯をしっかり食べた後は、妹と買い物に行くことになった。買い物行く?と聞けば、すぐに返事が返ってきたのだ。
着物しか持ってきていない妹に服と靴を貸し(妹は私よりも背が高いのでサイズが合わなくて少し困ったが)、数駅先にあるショッピングモールへと出かける。
妹に合うサイズの服と靴を購入した後、当初の予定通り雪尾用のカップを探しに雑貨屋に寄る。
食器のおいてあるコーナーで目に付いたのは、冬の晴れた空のような、白群青色のカフェオレボウルだ。
両手の平よりも少し大きく、シンプルな形をしている。空から降ってくる雪のような水玉模様が可愛らしい。
私が手に取って眺めていれば、白いしっぽが脚に擦り寄ってきて、それがいいと言わんばかりに揺れたので決定した。
「ゆっきー用の?」
「うん」
レジに向かおうとする私に、妹は「いいなあ」と唇に指を当てる。
「私も買おうかなー、ショ…待雪用に」
「…ココア、好きだもんね」
「そう!やっぱり覚えてたんだね、お姉ちゃん。昨日用意してくれたから、そうだと思ったんだ。……よし、あたしも買おっと」
妹は隣で楽しそうに選び始める。その横顔を私は黙って見つめた。
気づけばすでに昼を回っており、ご飯にしようと地下のレストラン街を目指す。その途中、バレンタインの特設コーナーが見えて思わず足を止めた。
「どうしたの?」
一緒に立ち止まった妹が私の視線の先を見て、ははーんと笑みを浮かべた。
「何なにー、もしかして好きな人できたの?それとも彼氏?」
「えっ!?ち、違うよ!そういうのじゃなくてっ…」
慌てて否定すれば、妹はぱちりと目を瞬かせる。
「…え、ちょっと、ホントに?」
「だから違うって…」
「真っ赤になってるよ、お姉ちゃん。相変わらず正直なんだから」
やれやれと息をつき、妹が私の背を押す。
「じゃあ買おう!せっかくだし」
「ちょっと、莉緒」
「私もついでに買おうかなー」
「…彼氏いるの?」
「いたらお見合いなんかしないわよ。待雪の分よ」
「そ、そっか…」
「それより、お姉ちゃんの好きな人ってどんな感じ?かっこいい?」
怒濤の質問責めに遭いながらも、私は高階君へのお礼用のチョコレートを購入した。
始終、妹がにやにやと見てくるので、頬の火照りが冷めることはなかった。
*****
昼ご飯を食べ終えた後も、ウィンドウショッピングを続ける。
妹は今日も泊まる気満々のようだ。
大学の方は大丈夫なのかと聞けば、単位は落としていないし、明日は講義が少ないので休んでも平気だと返ってきた。
私も明日までは休みなので問題はない。「明日には帰るから」と妹が先手を打ったので、それ以上注意もできず、了承した。
夕飯はせっかく二人いるから鍋で宴会にしようと決め、地下の食品売場でつまみになる総菜を買う。鍋の材料はアパート近くのスーパーで買う予定だ。
荷物を抱え、電車で最寄り駅まで帰る。
改札口を出て、人の行きかう駅の出口を出たときだった。
前を歩いていた白いしっぽがぴっと跳ねて、そわそわ動き出す。
どうしたのだろうと思った矢先、人の群の中で頭半分飛び出た、見知った顔を見つける。
茶色がかった柔らかそうな髪を持つ青年は、視線に気づいたのかのようにこちらを向いた。
青年――高階君と目が合えば、彼の整った顔がぱっと綻ぶように笑う。
「こんにちは」
挨拶しながら近づいてきた高階君だったが、その足がぴたりと止まる。
私の前にいる白いしっぽと、その隣のぽかりと空いた空間を、見開いた茶色い目が凝視していた。
そういえば高階君は犬神が見えるんだった、と思い返していれば、隣にいた妹が勢い込んで肩を叩いてきた。
「ねえ、お姉ちゃん!もしかしてあの人が、例の彼氏?」
「かっ…!?ち、ちが、違うって…」
「かっこいいじゃん!しかも年下?やる~!」
このこのぅ、と小声で小突いてくる妹は、こちらの話など聞いていない。
高階君に聞かれたら、と気が気ではないが、高階君はどうやら初めて見る雪尾以外の犬神に興味津々らしく、ぽかんと口を開けたまま、駅の床から目線を外さない。
妹は高階君の視線に気づいたのだろう。
「てゆーか、あの人……見えてるよね?」
「それは…」
へえ、と感心したように呟く妹に、私が勝手に答えていいものか。
悩んで無言のままでいると、高階君はようやく我に返ったように視線を上げた。
「……あっ、すみません。ええと……その子は…」
高階君が雪尾の隣の空間を指さしかけてから、私の隣にいる妹に気づいた。私と妹を交互に見やり、軽く首を傾げる。
「…もしかして、妹さんですか?」
「え?あ、はい…そうです」
「ああ、やっぱり。似てますね」
兄と姉、妹がいることは、前に高階君に話したことがある。
だが、妹と二人で並んでいても、大抵は姉妹に見られない。細面で背が高く、母親似の美人である姉妹と違い、私は小柄な祖母似で、丸顔の童顔なのだ。
姉妹だと言っても、大人びた莉緒の方が姉に見られることが多かった。
だから高階君がすぐに妹だと言ったことに驚きながら、慌てて頷いた。
妹はどこか楽しげにその様子を見た後、高階君に愛想の良い笑顔を向ける。
「はじめまして!白瀬莉緒です。姉がお世話になってまーす」
「はじめまして。高階恵です。こちらこそ、いつも白瀬さんにお世話になっています」
高階君は生真面目に自己紹介して会釈すると、少し照れくさそうに微笑む。
わくわくと期待するような目で見てくる妹の視線が、居たたまれない。
何か別のことを、と話題を変えようとした矢先だった。
「……見つけたわよ、莉緒」
背後から、少し低めの女性の声がした。
慌てて私と妹が振り向けば、そこには片手を腰に当てて仁王立ちする、20代後半くらいの女性がいる。
細身のトレンチコートをまとう、すらりと背の高い彼女は、妹とよく似た顔立ちをしていた。
「げっ…!奈緒姉ちゃん…」
「姉さん…」
顔をしかめる妹に対し、私は丸く目を見張る。
なぜ、姉の奈緒がここにいるのだ。
私と妹の視線を受け、姉は切れ長の猫目をすっと細めた。
「達兄から聞いたのよ。莉緒がこっちにいるって、連絡があったってね」
「何、連絡って……まさか、お姉ちゃん?」
「……」
妹がはっと気づき、私に訝しげな視線を向けてきた。
私は少し口を噤んだ後、正直に答える。
「昨日、兄さんには連絡しておいたの。莉緒が家にいるって」
「っ…」
「勝手に連絡してごめん、でも…」
伸ばした私の手を、妹が払う。
その顔は、悲しそうに歪んでいた。
「……私が来たの、そんなに邪魔だった?達兄ちゃんに言いつけるくらい?」
「違う、そうじゃ…」
「なら最初からそう言えば言いじゃないっ、お姉ちゃんの馬鹿!」
怒鳴った妹は、持っていた紙袋を私に向かって投げつける。
取り損ねた袋は床に落ち、がちゃんと嫌な音を立てた。
袋には、莉緒がショコラ用に買った、白い小さなデミタスカップが入っていたはずだ。もしかすると割れてしまったのかもしれない。
呆然とする私と同様、妹もはっと顔を強ばらせ、唇を強く噛む。今にも泣きそうなその表情に、私は思わず彼女の名を呼ぶ。
「莉緒…」
「…っ」
だが、妹はその声を無視し背を向け、急に駆けだした。後を追おうとすれば、姉の冷静な声が止める。
「やめなさい。あんたが追いかけても逆効果だわ」
「でもっ…」
反論しようとしたとき、すっと横から手が上がった。
「…あの、すみません」
「あっ…」
遠慮がちに手を挙げた高階君に気づき、私は息を呑んだ。そういえば高階君もこの場にいたのだった。
姉妹喧嘩を目の当たりにして、さぞかし困惑――いや、迷惑しているかもしれない。
「ご、ごめんなさい、高階君。あの、気にしないでもらえると…」
「いえ、そうじゃなくて。…よかったら、俺に任せてもらえませんか?」
「…え?」
「俺が追いかけます。白瀬さんや…お姉さんが追いかけるより、他人の俺が行った方が妹さんも戻らざるを得ないだろうし。……それに、追いかけてほしいみたいです、あの子」
高階君が、肩越しに指をやる。
その先にあるものは、私には見えない。
だが、何がいるのかはすぐにわかった。
「…ショコラ……」
「ショコラっていうんですね。わかりました」
高階君は頷き、私の後ろにいる姉を見やる。姉は高階君をじっと見つめて、軽く顎を引いた。
「そうね。巻き込んでしまって悪いけど、頼んでもいいかしら?」
「首を突っ込んでるのはこっちですから。……白瀬さん、店で待っててもらえますか?」
高階君は安心させるように微笑んで、私の肩を軽く叩くと、身を翻らせて走り出してしまう。
目の前で起こる展開についていけぬまま立ち竦む私の足に、白いしっぽが心配そうに寄り添っていた。
17話目にして、やっと「私」の名字が判明しました。
白瀬です。名前はまた後程…。
白瀬家は、長男・達央、長女・奈緒、次女の私、三女の莉緒の四人兄弟です。




