16 白いしっぽと突然の訪問者(前編)
図書館の勤務を終えて、帰路につく。
明日は祝日だ。図書館は開いているが、公休を取った。祝日の翌日は休館なので、二日連続の休みだ。
せっかくだし、明日は買い物に行こう。
雪尾用のカップと、高階君へのお礼を。
わくわくと計画を立てていれば、自分の住むアパートが見えてきた。
一階玄関ポーチの前には人が一人立っている。
女性だろう。和装のようだ。冬の夜空の下、着物に道行を重ねた格好は寒そうだ。
誰だろうと目を凝らす前に、隣を歩いていた雪尾の白いしっぽが、ぴんと跳ねた。白いしっぽは一目散に女性に――女性の足下に駆け寄る。
「…え、ゆっきー?相変わらず無駄にでかいわね…っていうか、ちょっと止めて、じゃれるのは!体格差あるんだから!」
聞こえてきた女性の声に、私も彼女が誰なのか気づいて駆け足になる。
女性は近づく私に気づき、はっと顔を上げた。
きりっとした猫目が印象的な顔には綺麗に化粧が施してあり、美人度をより上げている。
女性は寒さで真っ赤になった頬で、眉をハの字にして唇を尖らせた。
「…今日泊めて、お姉ちゃん」
拗ねた表情で頼む女性は、私の三つ下の妹、莉緒だった。
「もー!信じらんない!!」
「それはこっちの台詞。……まさかお見合い会場から逃亡してくるなんて」
すっかり冷えきった妹を部屋に上げ、風呂に入らせ、熱い煮込みうどんを食べさせた後、一通り話を聞いた私は息をついた。
妹は今日、お見合いがあったそうだ。
有名な老舗旅館の一室を貸し切り、両家の親、仲人が揃った状態での大仰なものだったらしい。
しかしその途中、妹は部屋を抜け出して、振り袖を着たまま逃亡し、タクシーと電車を使って私の住む町までやってきた。
携帯電話を忘れたらしく(おそらくわざとだろう、携帯が無ければ両親も連絡の取りようがないから)、仕方なく私のアパートの前で待っていたらしい。
暖まって一心地ついたのか、私の替えの寝間着を着た妹は、ホットカーペットの上で胡座をかいてリラックスしている。クッションを抱えながら、妹はぶうと頬を膨らませた。
「だって、私の犬神見て、あいつ何て言ったと思う!?『小さい』だよ、小さい!」
小さくて悪かったわね!と憤慨する妹の隣に、私は目線を向ける。
「ショコラ、いるの?」
「……お姉ちゃん、そっちじゃない」
あっち、と呆れたように示す方には、ぱたぱたと揺れる雪尾のしっぽがある。
なるほど、雪尾の隣にいるようだ。久しぶりに妹の犬神のショコラに会えて雪尾もテンションが上がっているのか、しっぽの動きが早い。
「よかったね、雪尾」
「よくないっ!さっきから、ゆっきーがじゃれついているから、毛並みがぐしゃぐしゃになってるんだから!それに……『ショコラ』じゃない」
「え?」
「……『待雪』になったの。ショコラだとみっともないからって。もうショコラじゃない」
「……」
クッションに顔を埋める妹の声は小さくて、弱々しかった。私はしばらく妹を見つめた後、立ち上がる。
「とりあえず、今日はもう寝ようか。ココア飲む?」
「……飲む」
「わかった」
ココアを用意するため、私は廊下のキッチンへと向かった。
幼い頃、私よりも先に犬神を見ることができた妹は、自分の犬神に自分で名前をつけた。
『ショコラ』だ。
外国土産の包装紙に書かれていた英字を兄から教えてもらい、響きが気に入ったらしく、舌足らずな声で「しょこら、しょーこらー」と何度も口にしていた。
私には見えない犬神を抱えながら、「しょこらだよ」と嬉しそうに自慢げに言う姿を覚えている。犬神にこっそりとチョコをあげている姿も。
当時の私は、妹が羨ましかった。
犬神を見ることができて。
自分の犬神を持っていて。
私が雪尾の存在に気づくことができてからは、その感情はだいぶ薄まった。
とはいえ、やはり能力があり犬神を見ることのできる妹のことは羨ましかったし、姉として劣等感はあった。
しかしそれ以上に、妹のことが好きだ。
能力が無い私に懐いてくれて、親戚や従兄弟達に私が貶されれば、兄姉よりも怒って彼らにくってかかった。私が怒る暇もないほど。
そういえば、一度私が家を飛び出した後、ショコラを使って従兄弟達を追いかけ回していたと、後で姉から聞いたものだ。
思い出しているうちに、鍋の中の牛乳がふつふつと沸き始めた。ココアの粉を入れてかき混ぜれば、甘い香りが漂い始める。
ふと、足下に何かすり寄る気配を感じた。
雪尾かと見下ろしたが、そこに白いしっぽの姿はない。
「……ショコラ?」
ぱたり、と足の甲に見えない何かが触れた。
「ショコラも、ココア好きだったよね」
足下でぱたぱたと動く空気に、しっぽ振ってるんだ、と口元が緩む。
「……大丈夫、ちゃんとショコラの分も用意しているから」
フローリングの床を軽く引っかく音と、小さな足音がかすかに耳に届く。あん、と高く鳴く声も聞こえてきそうだ。
足音と気配は、部屋の方へと戻っていく。それを見送り、私は二つのマグカップと、小さなデミタスカップにココアを注いだ。
大丈夫だよ、莉緒。
あなたの犬神の名前は、『ショコラ』だから。
だって、犬神がそう認めているんだもの。
誰に何を言われようと、ショコラはショコラだよ。
お盆にカップを並べ、部屋に運ぼうとして、ふと気づく。
「……あ、雪尾の分忘れてた」
その後、急いで冷たい牛乳を出したら、白いしっぽはしょぼりとうなだれたのだった。




