15 白いしっぽと白い牛乳
ちょっと奮発してみた。
720ミリリットルで980円。
とある牧場の、放牧された牛からとれた高級牛乳だ。
最寄り駅から数駅離れた中央駅に併設する百貨店で買ってきた。
瓶入りのものが珍しいのか、牛乳を置いたテーブルの周りを白いしっぽがうろうろしている。興味津々というように左右に振られる雪尾のしっぽに、私は笑みをこぼした。
「ちょっと待っててね」
食器棚から、雪尾専用のカフェオレボウルを取り出す。
赤い地色に白い雪の結晶が描かれた大きめのボウルは、二年前に買ったものだ。雪尾用カップはこれで六代目になる。
そろそろ新しいのに買い換えようか。高階君が、雪尾の目は青いと言っていたから、今度は青い器でもいいかもしれない。
ボウルをテーブルに置いて、牛乳瓶を開ける。蓋を取るとふわりと牛乳の香りがした。普通のものよりも甘く濃い感じがする。
雪尾のしっぽの振り幅とスピードが大きくなった。ぶんぶんっ、と音がしそうなほどの勢いだ。
期待に答えて、ボウルになみなみと牛乳を注ぐ。
「お待たせ、雪尾。どうぞ」
声をかければ、ボウルの中の水面に、ぴちょんと波が立った。
*****
雪尾が牛乳好きだということに気づいたのは、小学校三年生のときだ。
姉妹と共に帰宅すれば、祖母がおやつにカステラを買ってくれていた。
カステラと言えば牛乳、が我が家の暗黙のルールだ。姉はカステラを切り分けて皿に並べ、私は三人分の牛乳をそれぞれのマグカップに注ぐ。お盆に乗せて居間に運ぼうとしたときだ。
玄関から「ただいまー」と兄の声がした。
「あれ、今日は早いね、タツ兄」
「ああ。夏の大会も終わって、部活無いしな」
「おにーちゃんもカステラ食べる?」
「食べる食べる」
兄妹達の会話を聞きながら、私は兄の分のマグカップを食器棚で探す。
取り出してきてお盆に並べ、牛乳を注ごうとしたとき、ふと違和感を覚えた。
「…あれ?」
私のマグカップが、空になっている。
さっき注いだはずなのに、と不思議に思いながら注ぎ直して、牛乳のパックを冷蔵庫にしまう。
すると、後ろで「あ」と声がした。振り返れば、台所の入り口に立った兄が、ぽかんと口を開けている。
「……」
「どうしたの?お兄ちゃん」
「…おい、雪尾…お前……」
兄はなぜか雪尾の名を呼ぶ。
その後ろから顔を出した姉と妹が、あ、と同じように口を開いた。
「ゆっきー、牛乳のんでる!まっしろだぁ!」
妹がテーブルを指さしてきゃははと笑う。
見れば、テーブルの下でしっぽがふりふりと揺れていた。私のマグカップの中身は、いつの間にか半分ほどに減っている。
兄が額を押さえて唸った。
「…ちょっと待て、犬神って牛乳飲めるのか?っていうかいいのか牛乳飲んで…」
「えー、そう?りおのしょこらもチョコ食べるよ?」
「ちょっと莉緒、あんた犬神にそんなのあげてんの!?」
わあわあといつもの如く騒ぎ始めた兄達をよそに、私はしゃがみこんで雪尾のしっぽを撫でる。
「雪尾、牛乳好きなの?」
尋ねると、しっぽは手の中でぴんと跳ねた後、ぶんぶんと嬉しそうに振られた。
「…そっか。好きなんだね」
えへへ、と私もつられて笑う。
しっぽだけしか見えない私の犬神のことが、また一つわかって、何だか嬉しかった。
*****
少しずつ減っていくボウルの中身を見ながら、私は自分のマグカップに紅茶を入れる。ミルク無しのストレートティーだ。
この高級牛乳は雪尾のために買ったものだから、私は飲まないつもりだ。
――先日、再会した幼なじみの木嶋君が、小学生の時に起こった事件の真相を教えてくれた。
私の側にいる犬が、木嶋君を階段から落としたんじゃなくて、本当は助けてくれたのだということを。
それは、私の心の底に沈んでいた苦い思いを軽くしてくれた。
思わず木嶋君の前で泣いてしまったのは、きっと安堵感からだ。
泣いている私の足に、白いしっぽが心配するように寄り添ってきて、今度は雪尾への罪悪感が湧いた。
あのとき、私は雪尾のことを疑った。
自分のことを棚に上げ、雪尾を責めた。
私のことをいつも心配してくれているのに。
雪尾が優しい子だということを知っていたのに。
疑ってごめんなさい。
本当にごめん、雪尾。
安堵感と後悔の二重の波で涙が止まらなくなって、余計に雪尾を心配させてしまったものだ。
だから、この高級牛乳は雪尾へのお礼とお詫びだった。
少しでも喜んでくれたらと思っていたのだが、雪尾のあまりの喜びように、こっちの方が嬉しくなってしまう。
しっぽだけでこれだけ喜びが伝わってくるのだから、きっと全身が見えれば、すごいことになっているだろう。
ふと、この場に高階君がいたら、と考える。
きっと映画館のときのように無言で肩を震わせるんだろうなあ、と想像したらおかしくなって、私は思わず吹き出してしまった。
「……高階君にも、お礼言わなきゃ」
木嶋君の話を聞いて泣く私を、彼はアパートの前まで送ってくれた。泣いた理由を話せない私に呆れることなく、歩調を合わせて手を引いてくれたものだ。
私よりも年下なのに、本当にしっかりしている青年だ。
何かお礼になるものはないだろうか。バレンタインも近いし、お礼代わりにチョコだったら渡しやすいかもしれない。甘いものが苦手でなければの話だが。
つらつらと考える私の前で、カフェオレボウルはすっかり空になっていた。




