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12 白いしっぽと苦い初恋(後編)


 木嶋君は十段近くの階段を落ちたわりには、ほとんど無傷だった。

 落ちる際に足を捻り、軽い打ち身だけで済んだのは幸いというか奇跡だと保健室の先生は言っていた。

 念のために病院で検査と言うことになって、木嶋君は嫌そうながらも大人しく担任の先生と病院に行った。

 居合わせた生徒達は、木嶋君が私を追いかけようとして階段から足を滑らせたと口を揃えて言った。


 私は、何も言えなかった。

 青ざめて顔色の悪い私に、保健室の先生は「この子の方が体調が悪そうね」と言ったものだ。


 あなたのせいじゃないわ。

 木嶋君が自分で転んで落ちたのよ。

 そうだよ、僕見てたもん。

 そうよ、木嶋君が足滑らせただけだったもの。


 口々にかけられる慰めに、しかし私は頷くことはできなかった。

 青ざめた唇を引き結んで俯く私を、人が階段を落ちるところを見たからショックを受けたのだ、と先生達は解釈したようだ。

 保健室でしばらく休んだ後、早退することになった。

 体調が悪いわけではないので、親に迎えは頼まずに一人で帰る。

 通学路を歩いていれば、俯く私の足下で、白いしっぽが揺れるのが見えた。

 心配するように寄せられるしっぽは、いつもなら可愛いと思えただろう。

 しかし今は、見たくなかった。


「……どこか行って」


 見たくない。

 もう、見たくない。



 木嶋君を落とした後で、自慢げにゆれるしっぽなんか――



「もう、近づかないでっ…!」


 私は雪尾を残して、駆け出した。






 どうやって家に帰りついたのか、覚えていない。


 気づいたら、真っ暗で温かな布団の中にいた。

 部屋の襖が度々開いては、「珍しいな、おやつ食べないのか?」「ちょっと、熱でもあるの?大丈夫?」「お姉ちゃんの分、食べちゃうよー」と兄や姉、妹が入ってきたが、私は答えなかった。

 やがて溜息をついて出ていった彼らの後で、そっと襖が開く。


「…どうしたと?何かあったとね?」


 祖母の穏やかな声が、のんびりと尋ねてくる。


「ばあちゃん、蒸しパン作ったとよ。食べん?」

「……」

「熱い方がうまかけん、ちょっと起きんね?」


 祖母の蒸しパンは私の大好物だった。

 のそのそと布団から顔と手だけ出せば、丸顔の小柄な祖母がにっこりと笑う。


「ん、それでよか。……ほら、たっくん、なおちゃん。りおちゃんも、向こう行っとかんね」


 祖母が振り返る先には、開いた襖から顔を覗かせる兄弟達がいる。

 慌てて襖を閉めてどたばたと廊下を去っていく音が遠ざかった後、祖母は枕元に座り、皿に載った蒸しパンを差し出した。傍らのお盆には、牛乳を入れた私のマグカップがある。

 ほんのりと甘い匂いにつられ、私はようやく起き上がった。

 手に取った蒸しパンは温かく、ちぎって口に入れればふんわりと柔らかくて甘い。

 おいしくて、何だかほっとして、また涙が溢れてきた。


 祖母は私が泣き終わるまで側にいて、ゆっくりと話を聞いてくれた。


 図書館での木嶋君とのこと。


 その後の、階段での出来事。


「わ、私がっ…ついて、こないで、って、言ったから…」



 倒れた木嶋君の横で得意げに揺れるしっぽ。

 褒めてと言わんばかりの様子で、気づいたのだ。


 私のせいで、雪尾が木嶋君を落としたのだと。



「どうしよう、私がっ…」


 再び泣きじゃくる私の背を、祖母がゆっくりと撫でる。


「そう、そんなことがあったとね」


 まあまあと苦笑した後、祖母は静かに尋ねてくる。


「あんたは、木嶋君ば階段から落ちればよかって思ったと?」

「……わかんない…」


 もしかしたら、無意識にそう願ったのかもしれない。

 そして、雪尾がそれを叶えたのかもしれない。


 あの自慢げなしっぽを見て、自分の醜い一面を突きつけられたようで、怖くなった。

 見るのが、恐ろしくなった。


 雪尾が、じゃない。


 自分がだ。


 小さく震える背を、祖母の手が軽く叩く。


「ばってん、その子ほとんど怪我しとらんかったんやろ?」

「……」

「じゃあ、雪尾ちゃんばその子落としとらんよ」

「でも…」

「何があったかわからんばってん、あんたも、雪尾ちゃんも、そんなことしよらんって、ばあちゃん思っとるけん。だかいあんたも、雪尾ちゃんと……あんたを信じてやらんと」

「……おばあちゃん…」


 顔を上げた私を、おばあちゃんは穏やかながらも真剣な眼差しで見つめる。


「犬神さんは、自分で善悪は決めれんとよ。犬神さんの心は、主の心やけん。あんたが悪いことば望めば、雪尾ちゃんも悪くなるけん、それだけは気ぃつけんといかんよ」


 犬神憑きの家に生まれ、犬神憑きの家に嫁いで長い年月を過ごしてきた者の、言葉の重みだ。

 私は目を伏せて、小さく頷いた。


「……うん……信じたい」

「ん、それでよか」


 皺の多い顔で微笑んで、祖母は頭を撫でてくれた。

 涙と鼻水をティッシュで拭って、私は布団から出る。


「私……雪尾を、探しに行ってくる」


 怖くなって置き去りにした、もう一人の私。

 迎えに行かなくては。


 だが、祖母はふふと笑って襖の方を指さす。襖は、少しだけ開いていた。


「さっきから、部屋の前で心配しとらしたとよ」

「…雪尾…?」


 声をかけると、白いしっぽが隙間からゆっくりと現れる。床に垂れたしっぽは、じっとこちらを伺うように動かない。


「……おいで」

 

 手を差し出せば、おずおずと立ち上がり、しっぽが近づいてくる。布団にぽすりと重みがかかった。

 私は手を伸ばして、大きな白いしっぽに触れる。


「ごめんね、雪尾」


 ひどいこと言って。

 突き放して。


 信じて、やれなくて。


「っごめん…っ」


 ぎゅうっと抱きしめたしっぽの先が、私の頬をそっと撫でる。

 くぅん、と小さく鳴く声が聞こえた気がした。






 翌日、学校に行けば、木嶋君は普通に登校していた。

 病院の検査も異常なしだったようだ。クラスメイトは階段落ちのことを話題にして「無傷ってすっげー」「さすが隼君だね」などと盛り上がっている。

 私は集団を避けて自分の席に行く。途中、木嶋君と目があったが、彼はふいと顔を背けてしまった。

 そういえば、図書室では喧嘩別れしたような状態だった。

 謝らなきゃ、と私は休み時間に木嶋君の席へと向かう。足首に包帯を巻いた木嶋君は、前を向いて私の方を見ようとしない。


「あの、木嶋君」

「…何だよ」

「昨日は、ごめんね」

「何が」


 問われて、私は目を伏せる。



 私は、自分と雪尾のことを信じたいと思う。

 だけど、まだ信じられるほど強くはなかった。


 だいたい、私が木嶋君から逃げようとしなければこんなことにはならなかったのだ。

 彼が落ちたのは、私の弱さのせいもある。



「……いろいろ、ごめんなさい」

「っ、何でお前が謝るんだよ!」


 怒鳴り声に、私はびくっと肩を跳ね上げた。

 驚いて目線を上げれば、木嶋君は私を睨むように見ていた。いや、睨んではいるけど、怒っているというよりは泣きそうな顔をしていた。

 私と目が合うと、木嶋君ははっとしたようにそっぽを向く。


「……」

「……」


 二人とも黙ってしまえば、様子を伺っていたクラスメイト達が「何なに、喧嘩してんの?」と声を掛けてくる。

 ちげーよ、と木嶋君はあしらい、私はそっと席に戻った。


 その後、木嶋君とは六年生のクラス替えで別になり、中学校に入って生徒数が増えれば、接する機会は少なくなった。

 いや、私も木嶋君も、互いに相手を避けていたのだ。会えば普通に話すけど、以前のような打ち解けた雰囲気は無く、よそよそしくなった。

 そして別の高校に入ってしまえば、それきりで――


 私の初恋にも満たない淡い思いは、苦い色となって心の底に沈んだのだった。





**********





 昔のような気安さで話しかけられて、正直驚いた。

 木嶋君は昔と変わらずに快活で、昔よりもかっこいいと思う。

 だけど、私には苦い思いの方が強い。


 話したいけど、話したくない。

 昔を思い出してしまうから。


 披露宴中はできるだけ女子と一緒にいて、木嶋君と話さないようにした。

 披露宴を無事終えて、二次会の会場へと皆が移動する中、ふいに腕を引かれる。

 振り向けば、スーツの上にコートを着た木嶋君がいた。笑顔だけど、どこか戸惑いの色が目に浮かんでいる。


「なあ、お前も二次会に行くんだろ」

「え……ううん、明日仕事があるから、今夜の便で帰らないと」


 明日は日曜で、勤務先の図書館は普通に開いている。

 首を横に振れば、笑顔だった木嶋君の顔が曇った。


「そっか…」


 笑みを消し、木嶋君は真剣な表情になる。


「あの、さ。……お前の側に、まだ『犬』っているのか?」

「……」


 隠していた、心に刺さった棘がうずく。



 ああ、忘れていないんだ。

 私も、彼も。

 傷ついた柔らかな部分は、まだ癒されることなく残っている。

 

 ――ごめんなさい。これ以上、傷つきたくはないの。



 私は、静かに木嶋君を見上げた。


「……いるよ、って言ったら?」

「え…」

「冗談だよ」


 苦笑して、私は足元を見やる。


「何もいないよ。……何も」



 床で揺れる白いしっぽ。


 他の人には見えない、もう一人の私。


 見えないなら、見えない方がいい。

 無理して、見なくていい。

 信じてもらうのは、難しい。

 

 木嶋君に信じてもらうことは、もうとっくの昔に諦めていた。



 おーい木嶋ーと、離れた場所でかつての同級生達が手を振っている。


「ほら、行かなきゃ。みんなが呼んでるよ」

「俺は…」

「私の分も楽しんできて。……元気でね、木嶋君」


 ちゃんと笑えているかはわからないけど、笑って私は手を振った。

 木嶋君は何か言いたげに口を開きかけ、やがて固く唇を引き結んだ。


「……お前も、元気でな」


 低い声でそれだけ言うと、木嶋君は背を向けてみんなの方へと向かう。

 彼の背が送迎のバスの中に消え、他の同級生達が窓から手を振るのを見送った。

 バスが去ってぼんやりと佇む私の足に、温かなしっぽがすり寄ってくる。


「……ありがとう、ごめんね…」


 帰ろうか、と私は小さく呟いた。



次話は、今回の話で書かれなかった部分を別目線で更新する予定です。


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