11 白いしっぽと苦い初恋(前編)
小学生の頃から付き合いのある女友達が結婚することになった。相手は同じく小学生の時の同級生で、私も知っている子だ。
だからだろう、結婚式に呼ばれて参席すれば、懐かしい顔触れがそこかしこに見られた。久しぶり、元気だった?と声が飛び交い、さながら同窓会のような雰囲気だ。
受付を済ませて式が始まるまでの間、ウェルカムドリンクを手にして、昔の友達と話していたときだ。
「よ、久しぶり」
黒髪を短く刈った、精悍で彫りの深い顔立ちの青年が傍らに立って手を上げた。
「……」
「お前結婚式でも眼鏡かよ。コンタクトにしとけ」
懐かしい面影と、からかうような口調。
『お前また牛乳残してんのか』
どきり、とした。
一瞬言葉が詰まって、顔が強ばりそうになる。
固まる私に、青年は「うわ」と顔をしかめる。
「おい、まさか人の顔忘れたのかよ」
「え、う、ううん…」
「うそぉ、木嶋!?久しぶり!」
「え?隼君?超かっこよくなってるじゃん!」
同じソファに座っていた女子がきゃあきゃあと騒いで青年――木嶋隼に話しかける。
はっきりした顔立ちに高い背。スポーツ万能で頭もよかった。女子にもてるところは、昔と変わっていないようだ。
クラスのリーダー的存在で、人気者だった彼。
しかし、私は彼が苦手だった。
小学生のときに起きたある事件と、ひどく苦い後悔を思い起こさせるからだ。
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「何でお前牛乳残してんの?」
席替えで隣になった木嶋君は早々に給食を食べ終えて、私のお盆をのぞき込んだ。
「お前、牛乳嫌いなの?」
「え?嫌いじゃないよ」
「じゃあ何で残すんだ?」
「……」
私は俯きながら、足下の白い尾をそっと見下ろした。
牛乳が好きな犬神にあげようと思って、とは言えない。黙っていても、木嶋君の視線は外れない。
残していた牛乳を仕方なく飲むと、期待で揺れていたしっぽがへたりと下がった。
代わりに「何だ飲めるんじゃん」と木嶋君が呆れたように言う。
「お前ってさ、時々牛乳残してるよな。何で?」
「……お腹いっぱいで」
「ふーん」
田舎の小学校で生徒数は多くなく、学年に2クラスしか無い。なので、同じ学年であれば名前も顔もほぼ知っている者ばかりだ。
木嶋君のことも知っていた。学年一の人気者で、女子の話題にしょっちゅうあがっていたからだ。
だが、四年生までは直接話すことは少なかった。
私は人見知りで、男の子と話すのは特に苦手だった。休み時間は仲のよい数人の女子と話すくらいで、あとは図書室で一人過ごすことが多かった。
教室の片隅にいる地味な女子と、快活でスポーツ万能な人気者の男子に、接点などない。
しかし、席が隣になって以来、木嶋君は何かと声をかけてくるようになった。
お前って、本ばっかり読んでるよな。
眼鏡だけど、どんくらい目悪いんだ?
本ばっか読んでると、よけい目が悪くなるぞ。
なあ、外で遊ばないのか?
あ、でもお前体育全然だめだよな。
さっきから足下見てるけど、何見てんの?
虫でもいんの?
次々とかけられる言葉に、私は戸惑った。
答える前に次の言葉が飛んできて、返せるのは沈黙か、「うん」「ううん」といった相槌くらいだ。
見かねて、というか木嶋君と話したい女子が間に入ってくれたので助かったものだ。
矢継ぎ早の言葉に慣れてくれば、徐々に木嶋君と会話ができるようになっていく。木嶋君と話していると人が集まり、他の男子とも話す機会が増えた。
いつの間にか、明るくて人なつこい彼のおかげで、男子と話すことがそれほど苦手じゃなくなっていった。
今思えば、たぶん私は、木嶋君に好意を抱いていたのだろう。
恋愛というよりは友情に近いものだった。初めてできた男子の友達が嬉しかったこともある。
だから、たぶん、浮かれていたのだ。
私の側にいつもいる、白いしっぽの犬神のことを話してしまったのは。
*****
「俺ん家、犬飼ってんだ。柴犬のシロ」
すでに隣の席ではなくなっていたが、木嶋君は時折昼休みに図書室を訪れるようになっていた。今日も、まだ寒さの残る三月の初めで、寒風を避けるように図書室に来た彼は、私の前の席に座っていた。
私は本から目を離し、首を傾げる。
「シロ?白いの?」
「いや、黒いんだけどさ、足の先と顔と腹のとこが真っ白だから。親父は最初はマロって名前つけようってしてたらしい」
木嶋君は机に肘をついて楽しそうに笑った。
犬の顔がちょっとバカ殿に似てるんだ、と言う。
「家に帰ると足下にじゃれついてくんの。すっげー可愛いんだぜ。小さい頃から一緒に過ごしてて、兄弟みたいなんだ」
その嬉しそうに弾む声に、私も嬉しくなった。
何となく、彼の気持ちが分かったからだ。
いつも側にいて、大好きで、自慢したくなる。
そんな存在が、彼にも――私にもいる。
「……私も」
「ん?」
「私も、犬がいるの」
「へえ、お前ん家も犬飼ってるんだ?」
「ううん。私の側にいるの」
そう言って、私は後ろを見やる。
窓際の作り付けの木のベンチの上で、ひなたぼっこをしながらゆったりと揺れる白いしっぽ。
私の視線を追った木嶋君は、不思議そうに眉根を寄せた。
「……何もいないけど」
「人にはあまり見えないんだけど、ちゃんといるんだよ」
「……」
そのときは、ただ、共感できたらいいなと思っていた。
だけど、言ってから私は後悔した。
木嶋君は、困ったような、何か気味の悪いものを見るような、そんな表情を浮かべたのだ。
「えーと……お前、何言ってんの?」
困惑した声。
「…あ!お前ってさ、実は不思議ちゃんってやつ?もう六年生になるんだからさ、そういうのやめといた方がいいぜ。変に思われるし」
明るく、話題を逸らすように彼が言ったのは、きっと気を遣ってくれたからなのだろう。
だが、彼の言葉は私の胸に刺さった。
お腹の中に氷を落とされたように、冷たさが広がる。
喉の奥に何かが詰まったように、声がでない。
視界がぼやけて、小さな滴が本のページの上に落ちた。
白い紙にじわりと広がっていく灰色の染みのように、暖かく嬉しかった気持ちが塗りつぶされ、固く重いものに変わっていく。
ごとり、と胸の底に落ちたのは何だったのだろう。
「っ…」
堪え切れなくなって、私は本を閉じた。
本を抱えて席を立てば、木嶋君がぎょっとしたように目を見張る。
「えっ?お、おい、何で泣いてんだよ」
私は答えずに、本を胸に抱いたまま図書室を出た。
足早に廊下を歩く私の後ろを、木嶋君が追いかけてくる。
「ちょっと!どうしたんだよ、おい!」
「……」
「なあ、怒ったのか?不思議ちゃんって言って悪かったよ、謝るからさ!」
違う。
そうじゃない。
そうじゃ、なくて――
わかってるんだ。
木嶋君の言っていることが、正しいことくらい。
私の犬神の姿は、親族以外の人には見えない。
私だって、しっぽだけしか見えない。
しっぽも見えていなかった幼い頃は、犬神の存在を否定していたこともある。
見えないのが当たり前。いないのが普通。
それを分かってほしいと――共感してほしいと思ったこと自体が、間違いだったのだ。
馬鹿なことを言った自覚はある。
そもそも犬神のことを他人に話すなと言われていたのに。
なのになぜ、彼に否定されたことがこんなに悲しいのだろう。悔しいのだろう。
私の犬神は、いるのに。
――雪尾は、ここにいるのに。
「……ついてこないで」
頬を濡らすものを拭いもせずに、私は階段をかけ降りた。上の階で、木嶋君が大きな声で言う。
「なあ!そんな怒ることじゃないだろ!」
「ついてこないでってば!」
叫ぶように言った後。
「うわっ」
上から木嶋君の驚いた声がして。
どんっ、ばたんっ、と大きな音がした。
「え……」
急いで踊り場に戻ってみれば、そこにはうつ伏せに倒れた木嶋君と。
木嶋君の傍らで、得意げにしっぽをふる――雪尾が、いた。




