10 白いしっぽと映画館
膝の上に置いた女性雑誌の一ページ。
前に読んだことのある、海外作家の本を原作とした映画が紹介されていた。
そういえばコマーシャルでもやっていたな、と記事を読んでいれば、ことりと机の上で音がする。
顔を上げる前に、ほんのりと香りが漂ってくる。
注文していたミルクティーが届いたようだ。隣を見上げれば、いつも通り白いシャツと黒いエプロンを身につけた青年、高階君が立っていた。
大きな手が、お盆から砂糖の入った小さな陶器の壷とミルクピッチャーを机の上へと移す。
高階君は私の手元の雑誌を見て、「あ、それ」と呟いた。
「映画化したんですよね」
どうやら、同じ記事を目に留めたらしい。
「知ってるんですか?」
「はい、原作を読んだことがあって」
「私も。けっこう面白くて、好きだったんです」
「確か実際にあった怪奇事件を元にした内容ですよね。サスペンスだけどホラーが混じってて。文章も読みやすくて面白かったです」
「ですよね。せっかくだし、見に行こうかなぁ…」
後半は独り言だったのだが、テーブルの向かいにホットミルクを置いていた高階君がさらりと返してくる。
「あ、俺も見に行きたいです」
そう言って、私の方を見た。
「よかったら、一緒に行きませんか?」
高階君の言葉に、向かいの席の上で揺れていた白いしっぽがぴたっと止まり、ホットミルクのカップが小さく揺れた。
**********
待ち合わせは午後2時。場所は映画館の入り口付近。
10分前に着いて辺りを見回せば、ポスターの貼られた壁の下で手を振っている背の高い青年がいる。高階君だ。
慌てて走りよってぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい、遅くなって」
「いえ、俺が早く着きすぎただけです」
大学終わってから直行で来てしまって、と高階君は手をうなじに当てて言った。
映画の話をしたのは、つい一週間前だ。
一緒に行きませんかという突然の誘いには驚いたものの、原作を知っている者同士、一人で見るよりも二人の方が楽しそうだ。
ならば都合があえば一緒に行こうという話になり、私が月曜日が休みだと言うと、高階君はちょうど今度の月曜の午後から休講が入っていると答えた。
『じゃあ、今度の月曜日で』
流れるように話は進み、待ち合わせ場所や時間をほぼ高階君が決めて、今日に至る――
映画の開始は2時20分からだった。少し早いが、館内に入って映画の券を買う。
他の映画のポスターを見ていれば、高階君が「飲み物買ってきます」と売店の方へ向かう。私も買っておこうと足を向けて売店に並べば、前にいた高階君が注文のときにこちらを振り向いた。
「アイスティーでいいですか?」
「え?あ、はい」
「じゃあ、アイスティー一つと、ジンジャーエール一つ」
まとめて注文をすませた高階君に、お金を渡そうとすれば彼は軽く手を振った。
「これくらいはおごらせて下さい。映画に付き合ってもらうお礼です」
高階君はまとめてお金を払うと、アイスティーの入ったカップを渡してくる。
「ミルクもあればよかったんですけど」
ね、と言いながら、私の足下で揺れるしっぽを見下ろす。どうやら雪尾の分もおごろうと思っていたらしい。
コーヒーフレッシュなら、と言いかけた高階君の脚を、白いしっぽが力強く叩いた。
劇場の中に入れば、五割ほど席は埋まっていた。平日の午後なので、休日よりも人は格段に少ない。
スクリーンからやや離れた、中央の列の席を選んで進む。私が先に通路を進んで席に着けば、その隣の席でぎっと音が鳴る。
見れば、雪尾のしっぽがちょんと席の上に乗っている。私の隣に座りたいようだ。
後ろの高階君を見れば、彼は少し苦笑して「じゃあ俺は雪尾さんの隣で」とその隣に座る。
端から見れば、一つ席を空けて座る奇妙な連れに見えるだろう。
しかし、私は少しほっとしていた。
高階君――男の人が隣に座るのは、やはり緊張するものだ。できれば映画を楽しみたいし、少しホラーな内容もある映画だから、雪尾が隣にいれば安心だ。
そう思いながら、私は上映を楽しみに待った。
エンドロールが流れ、落とされていた照明が徐々に明るくなっていく。
席を立って出ていく人の中、私と高階君は無言で足早に映画館を出た。
「……私、後半ほとんど映画に集中できませんでした」
「……俺もです」
どこかぐったりとした高階君と目が合えば、引き締めていた口元が途端に緩んでしまった。ふっ、と小さく吹き出してしまう。
高階君はといえば、彼はふるふると肩を震わせて俯いていた。
その理由はよく分かる。
なぜなら、ホラー要素の濃くなる映画の後半から、二人の間に座っていた雪尾の――
恐がり方が半端なかったからだ。
映画の主人公がゾンビっぽいものに遭遇したり、ドアが急に閉まったりする場面で、雪尾のしっぽは度々大きく震えた。
ぼふっと毛がふくれ、落ち着いたかと思ったらまた、ぼふっと驚きを体現する。
うろうろと忙しなく揺れるしっぽは、しまいには座席の下に潜り込んで小さく丸くなってしまった。
おかげで、映画よりも雪尾の様子に気を取られてしまった。
雪尾のあまりの怖がりようにこちらの方が驚いたし、何より、ものすごく――可愛かったのだ。
しっぽだけしか見えない私と違い、雪尾の全身が見える高階君は、私よりももっとすごいものを見たのだろう。
笑い方が私よりも半端なかった。
高階君は必死で声を出さずに笑いを堪えているようだが、なかなか収まらない。笑い上戸なのかもしれない。
「ゆ、雪尾さんって、ホラー、苦手なんですか…?」
何とか呼吸を整わせて震える声で尋ねてくる高階君に、私は苦笑する。
「そうみたいです。今まで家でホラー映画を見ることが少なかったから、知らなかったけど…」
足元を見れば、白いしっぽはすっかり消耗して、しゅんと地面に垂れている。まだ笑いが収まらず無言で震えている高階君を叩く元気もないらしい。
抱きつくように私にすり寄る姿に、不謹慎にも笑みがこぼれてしまう。
「ごめんね、雪尾。今度からホラー映画はやめておこうか」
そう言うと、少しだけ気力を取り戻したのか、しっぽの先だけで軽く足を叩かれた。
その後、喫茶シリウスに向かい、高階君は「お詫びです」と雪尾にホットミルクをおごったのだった。




