第4章・第28話:星図の回廊と、燻製猪の熱々チーズシチュー
空挺特化兵たちとの激戦を終え、ガラスの昇降機は静寂を取り戻した巨樹の内部を、さらに高くへと昇っていく。
外の景色はすでに深い群青色に染まり、雲海は遥か足元の彼方へと消え去っていた。標高が上がるにつれて昇降機内の空気もひんやりと冷たくなり、シエルは無意識にコートの襟を合わせた。
やがて昇降機はゆっくりと減速し、澄んだ到着音と共に第80層のゲートを開いた。
「……うわぁ……。なにここ、すっごく綺麗……」
ティオが琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、思わず感嘆の声を漏らす。
シエルとバルドも、目の前に広がる幻想的な光景に息を呑んだ。
第80層【星図の観測所】。
そこは、世界樹の内部とは思えないほど静かで、広大なドーム状の空間だった。
壁や床の境界線はなく、すべてが黒曜石のように磨き上げられた床面で統一されている。そして空間全体に、無数の青白い『魔力水晶』がプラネタリウムのように浮かび上がり、頭上のドームいっぱいに美しい星空を精緻なホログラムとして映し出していた。
「下層の熱気や嵐が嘘みたいな静けさだな。……ここは何の施設なんだ?」
バルドが真鍮の義手を軽く鳴らしながら、星の海を歩くようにゆっくりと足を踏み出す。
「おそらく、世界樹の『天体観測と魔力調整』の保管庫ね」
シエルは宙に浮かぶ星座の立体図を指先でそっとなぞりながら、静かに答えた。
「この世界樹は、星々の満ち欠けや運行から魔力のバイオリズムを計算して、成長を制御しているのよ。ここは数千年分の星の動きを記録している、巨大な天文時計ね」
シエルの視線の先、回廊の最奥には、次の階層へと続く巨大な扉があった。しかしその前には、無数の真鍮のリングと水晶の歯車が複雑に絡み合った、見上げるほど巨大な『天球儀のロック』が立ち塞がっていた。
「あの扉を開けるには、この天球儀の歯車を『千年前の正しい星の配置』に合わせる必要があるみたい。……少し、緻密な演算が必要になるわ。解錠の数式を組み上げるのに、二十分ってところかしら」
「なら、お嬢が頭を使ってる間に、俺たちは腹ごしらえといくか! さっきの嵐の中でのドンパチで腹も減ったし、この階層は少しばかり冷えるからな」
バルドがドカリと黒曜石の床に腰を下ろし、背中の荷袋から携帯用の魔導コンロと、マーサから持たされた『特製・野営食セット』を取り出した。
「賛成! お母さんの特製シチュー、早く食べたい!」
ティオも大喜びでバルドの隣に座り込み、焚き火代わりの魔導コンロに火を灯した。
シエルも「脳の演算効率を上げるためには熱とカロリーが必要ね」と理由をつけて、トランクを傍らに置き、冷えた手をコンロの火にかざした。
静かな星図の回廊に、やがてたまらなく食欲をそそる匂いが漂い始める。
バルドが小鍋で温め始めたのは、**『スモーク・ボア(燻製猪)と琥珀栗の熱々チーズシチュー』**だった。
「おおっ、いい具合にチーズが溶けてきやがったぜ!」
鍋の中では、濃厚なホワイトソースとたっぷりの密林チーズがグツグツと音を立てて黄金色の泡を吹いている。
その熱々の海に沈んでいるのは、桜のチップでじっくりと燻された『大猪の厚切りベーコン』と、世界樹の養分をたっぷり吸って育った大粒の『琥珀栗』だ。
バルドが木べらでかき混ぜるたびに、チーズの焦げる香ばしい匂いと、スモーク肉の野性味あふれる香りが、冷え切った高高度の空気にブワッと広がっていく。
「さあ、冷めないうちに食おうぜ! 付け合わせの『香草焼きパン』を浸して食うのがマーサの親分のオススメらしい」
シエルは手渡された木の器を受け取り、まずはスプーンで琥珀栗とシチューを掬って口に運んだ。
――その瞬間、シエルのアメジストの瞳がパッと見開かれた。
「……っ、美味しい……!」
とろけるような熱々のチーズが、冷えた体を芯からじんわりと温めていく。
噛めば噛むほど、燻製ベーコンから凝縮された肉の旨味と強烈なスモークの香りが染み出し、濃厚なシチューのコクと完璧に交じり合う。そして、塩気の強い肉の後に来るのが、琥珀栗の驚くほどの『ホクホクとした甘み』だ。サツマイモのように甘く、栗のように香ばしいその実が、シチューの塩気を優しく包み込み、無限に食べ進められるような悪魔的なバランス(数式)を生み出していた。
「んん〜っ!! パンにチーズをたっぷり絡めると最高だよ!」
ティオが、表面をカリッと焼かれたハーブ入りのパンをシチューの鍋に直接ダイブさせ、熱々に溶けたチーズをビヨーンと長く伸ばしながら頬張る。
サクッとしたパンの食感に、トロトロのチーズと旨味たっぷりのスープがジュワリと染み込み、思わず笑みがこぼれる美味しさだ。
「がははっ! こりゃあ五臓六腑に染み渡るぜ! 寒い場所で食う熱々のシチューほど美味いもんはないな!」
バルドも豪快にパンを齧り、シチューを流し込んでいく。
「本当に……マーサさんの料理の計算式は、王都の三ツ星シェフでも敵わないかもしれないわね」
シエルはすっかりこの密林の野営食の虜になり、はふはふと白い息を吐きながら、夢中で二口目、三口目とスプーンを動かした。
無数の星々が瞬く幻想的な静寂の中で、鍋から立ち上る湯気がふんわりと星空のホログラムに溶けていく。
追っ手の気配も、危険な罠もない、プロウォーカーたちだけの穏やかな休息の時間。激しい探索の合間に訪れるこういう温かい瞬間こそが、過酷な旅の最高のスパイスだった。
「……さて、ごちそうさま。脳のアイドリングは完了よ」
シチューを最後の一滴までパンで拭い取って完食したシエルは、満足げに立ち上がった。
カロリーと熱を行き渡らせた彼女の表情には、ハッカーとしての鋭い知性が完全に戻っている。
彼女は『銀色の魔導鍵』を片手に、巨大な天球儀のロックへと静かに歩み寄った。
「いくわよ。大樹の記憶、私がもう一度、正しい星空を見せてあげる」
シエルが銀の鍵を天球儀の中央にあるスロットに差し込む。
「――事象展開。対象、天文時計のメインギア。……星座標の逆算を開始」
カチャリ、とシエルが鍵をひねった瞬間。
天球儀を構成していた無数の真鍮のリングが、澄んだ音を立ててひとりでに回転を始めた。
チリチリチリ……ガシャン、コトリ。
それは力任せの破壊ではなく、パズルのピースをあるべき場所へと優しく導くような、極めて繊細で美しいハッキングだった。
シエルの魔力を受けた水晶の歯車が噛み合い、天球儀のリングが複雑な軌道を描いて回る。やがて、リングに埋め込まれた水晶がピタリと一直線に並び、空間に浮かんでいたホログラムの星空が『千年前の完全な姿』を取り戻した。
『――星図座標、ロック解除。第80層、メインゲートを開放します』
静かなシステム音声と共に、最奥の巨大な扉が、重々しい音を立てて左右にスライドしていく。
「お見事。やっぱりお嬢の腕は、世界一だぜ」
バルドが荷物をまとめながら、ニヤリと笑った。
「当然よ。この程度のギミック、食後の腹ごなしにもならないわ」
シエルは銀の鍵をトランクにしまい、アメジストの瞳を扉の奥へと向けた。
「さあ、ここから先は第90層以上。いよいよイグノタフの本隊が陣取っているはずの、世界樹の最深部よ」
美味しい休息で英気を養った三人は、星の回廊を抜け、決戦の地が待つさらなる上層へと足を踏み入れていった。




