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第13話 世界に触れている

朝、目が覚めた瞬間から違和感があった。


天井を見上げて、

ここが自分の部屋だと理解するまでに、

ほんの数秒、間が空いた。


知らない場所じゃない。

でも「知っている」と即答できない。


その感覚が、

静かに胸を締めつける。



洗面所で顔を洗う。


鏡の中の自分と目が合って、

一瞬だけ、遅れて瞬きをした。


――今の、なんだ。


気のせいだ。

そう言い聞かせる。


けれど、

昨日から続くズレが、

確実に積み重なっているのを感じていた。


記憶。

感覚。

時間。


削られているのは、

派手なものじゃない。


“当たり前”だった部分。



朝食の席で、

妹が不意に言った。


「ねえお兄」


「ん?」


「昨日さ……」


そこで、言葉が止まる。


妹は首を傾げ、

少し考えてから笑った。


「……やっぱいいや」


胸が、嫌な音を立てた。


「何?」


「ううん。

 なんか変な感じしただけ」


変な感じ。


その言葉が、

胸の奥に引っかかる。


妹は、何かを感じている。

でも、まだ輪郭を掴めていない。


――気づくな。

まだ、気づくな。



学校へ向かう妹を見送ったあと、

俺は机に向かった。


ノートを開く。


日付を書く。

名前を書く。


……書けない。


名前の漢字が、

一文字だけ思い出せなかった。


ペン先が、

紙の上で止まる。


「……はは」


笑うしかなかった。


思い出せない理由が、

はっきりしているからだ。


昨日、世界に触った。


妹が倒れる未来を、

力ずくで否定した。


修正されるはずだった流れを、

俺が踏み潰した。


その結果――

俺の一部が、切り取られた。



大学病院へ向かった。


呼ばれてはいない。

でも、行くべきだと分かっていた。


あの医師なら、

答えを知っている。


古い診察室。


今日は、最初から鍵が開いていた。


「やっぱり来たね」


医師は、俺を見るなり言った。


「質問は一つです」


俺は、椅子に座らずに言った。


「俺は、何をしてるんですか」


医師は、

少しだけ考える素振りを見せてから答えた。


「干渉だよ」


「未来への介入じゃない」


「世界そのものへの接触だ」



「普通、人は世界に影響を与えない」


「選択肢は用意されているけど、

 範囲は決められている」


「でも君は――

 範囲の外から手を突っ込んだ」


胸の奥が、冷える。


「0.02%の未来」


「修正が追いつかない例外」


「そこに君が“いた”から、

 世界は計算を間違えた」


「……だから、俺が削られる」


「そう」


医師は、はっきり言った。


「君はもう、

 人間として扱われていない」


言葉が、重く落ちた。



「じゃあ、俺がこれから干渉すれば」


「妹は助かる」


「その代わり、

 君はどんどん薄くなる」


「記憶、存在感、

 いずれは――

 “世界にいた痕跡”すら」


それでも、

答えは決まっていた。


「……それでいい」


医師は、

ほんの一瞬だけ目を細めた。


「君は、怖くないの?」


「怖いですよ」


正直だった。


「でも、もう知ってしまった」


「俺が何もしなければ、

 妹は死ぬ」


「何かすれば、

 俺が消える」


「だったら――」


言葉を、最後まで言わなかった。


言わなくても、

伝わったからだ。



診察室を出ると、

廊下がやけに長く感じた。


すれ違う人たちが、

俺を見ていない気がする。


避けられているわけじゃない。

認識されていない。


その感覚に、

笑いそうになる。


――ああ。


俺はもう、

世界の外側に立っている。


それでも、

妹のいる場所だけは、

はっきりと分かる。


そこへ行くためなら、

どれだけ削れても構わない。



その夜、

妹がぽつりと言った。


「ねえお兄」


「最近さ……」


俺は、息を止めた。


「お兄、

 前より静かになったよね」


世界が、音を立てて軋んだ。

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