第13話 世界に触れている
朝、目が覚めた瞬間から違和感があった。
天井を見上げて、
ここが自分の部屋だと理解するまでに、
ほんの数秒、間が空いた。
知らない場所じゃない。
でも「知っている」と即答できない。
その感覚が、
静かに胸を締めつける。
◆
洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分と目が合って、
一瞬だけ、遅れて瞬きをした。
――今の、なんだ。
気のせいだ。
そう言い聞かせる。
けれど、
昨日から続くズレが、
確実に積み重なっているのを感じていた。
記憶。
感覚。
時間。
削られているのは、
派手なものじゃない。
“当たり前”だった部分。
◆
朝食の席で、
妹が不意に言った。
「ねえお兄」
「ん?」
「昨日さ……」
そこで、言葉が止まる。
妹は首を傾げ、
少し考えてから笑った。
「……やっぱいいや」
胸が、嫌な音を立てた。
「何?」
「ううん。
なんか変な感じしただけ」
変な感じ。
その言葉が、
胸の奥に引っかかる。
妹は、何かを感じている。
でも、まだ輪郭を掴めていない。
――気づくな。
まだ、気づくな。
◆
学校へ向かう妹を見送ったあと、
俺は机に向かった。
ノートを開く。
日付を書く。
名前を書く。
……書けない。
名前の漢字が、
一文字だけ思い出せなかった。
ペン先が、
紙の上で止まる。
「……はは」
笑うしかなかった。
思い出せない理由が、
はっきりしているからだ。
昨日、世界に触った。
妹が倒れる未来を、
力ずくで否定した。
修正されるはずだった流れを、
俺が踏み潰した。
その結果――
俺の一部が、切り取られた。
◆
大学病院へ向かった。
呼ばれてはいない。
でも、行くべきだと分かっていた。
あの医師なら、
答えを知っている。
古い診察室。
今日は、最初から鍵が開いていた。
「やっぱり来たね」
医師は、俺を見るなり言った。
「質問は一つです」
俺は、椅子に座らずに言った。
「俺は、何をしてるんですか」
医師は、
少しだけ考える素振りを見せてから答えた。
「干渉だよ」
「未来への介入じゃない」
「世界そのものへの接触だ」
◆
「普通、人は世界に影響を与えない」
「選択肢は用意されているけど、
範囲は決められている」
「でも君は――
範囲の外から手を突っ込んだ」
胸の奥が、冷える。
「0.02%の未来」
「修正が追いつかない例外」
「そこに君が“いた”から、
世界は計算を間違えた」
「……だから、俺が削られる」
「そう」
医師は、はっきり言った。
「君はもう、
人間として扱われていない」
言葉が、重く落ちた。
◆
「じゃあ、俺がこれから干渉すれば」
「妹は助かる」
「その代わり、
君はどんどん薄くなる」
「記憶、存在感、
いずれは――
“世界にいた痕跡”すら」
それでも、
答えは決まっていた。
「……それでいい」
医師は、
ほんの一瞬だけ目を細めた。
「君は、怖くないの?」
「怖いですよ」
正直だった。
「でも、もう知ってしまった」
「俺が何もしなければ、
妹は死ぬ」
「何かすれば、
俺が消える」
「だったら――」
言葉を、最後まで言わなかった。
言わなくても、
伝わったからだ。
◆
診察室を出ると、
廊下がやけに長く感じた。
すれ違う人たちが、
俺を見ていない気がする。
避けられているわけじゃない。
認識されていない。
その感覚に、
笑いそうになる。
――ああ。
俺はもう、
世界の外側に立っている。
それでも、
妹のいる場所だけは、
はっきりと分かる。
そこへ行くためなら、
どれだけ削れても構わない。
◆
その夜、
妹がぽつりと言った。
「ねえお兄」
「最近さ……」
俺は、息を止めた。
「お兄、
前より静かになったよね」
世界が、音を立てて軋んだ。




