エピローグ
涼しい風がふわふわと白いカーテンを揺らす。
茜色の光が差し込んで、つやつやとした机に映える。
ふと外を見ると、外周している運動部員の後姿が遠く、長い影を伸ばしている。
誰もいない教室は驚くほど静かで、採点中の答案用紙がぱらぱらと舞う様子さえ心地良い。
無月はさらさらと走らせていた手を止め、時計を見上げた。
もう六時になりかけている。
いつの間にか随分集中していたらしい。
そろそろ帰らなければ。
とある初夏の一日。今日は彼の誕生日なのだから。
広げていたものをまとめ、荷物を肩にかける。
答案用紙は帰りに職員室にしまえるよう、別の袋に移した。
廊下に出ると、広い前庭が見渡せる。
現在の高校に赴任して早一年。
前校で大分慣れたと思った仕事も、所変われば何とやら、また一から覚え直しているかのような心持ちだった。
以前の勤め先が懐かしいのは否定し得ないが、この高校にしかない良さもたくさんあった。
何より、こうして経験を重ねていくことで、教え子の力になれる引き出しも増えていくはずだと、信じている。
「藤泉院せんせーい!」
門のそば、遠くから少女たちが手を振っている。
「またあしたー!」
無月は肩の鞄を抱え直すと、力一杯手を振り返した。
――――……
職員室で用紙を片付け、隣の机の先輩教師と簡単な話しをしていると、「あ、藤泉院先生!」と声を掛けられた。
振り向くと、出入口の影に、一人の女生徒が立っている。
無月は周囲に挨拶を済ませると、すぐ彼女の元へ駆け寄った。
「探してくれてたの?ごめんなさいね、先生教室にいたのよ」
少女はふるふると首を振ると、「いえ、ちょうど先ほどお見かけしたので」とはにかんだ。
派手な顔立ちというわけではないけれど、愛嬌のある彼女。
友人の彼氏に言い寄られ疲弊しているのだと相談を受けていたので、また何かあったのかと心配になる。
予想を裏切らず、彼女は困ったように、それでも精一杯強がって言葉を発した。
「彼女に、裏切り者って言われてしまいました」
「でも貴女は、彼の気持ちには応えられないと、断っているんでしょう?」
少女は頷く。
真面目に誠実に断っていることを、無月は知っていた。
「彼女も、それは分かっているんです。でも、気持ちがついていかないんだって…苦しそうでした」
友人のことも、無月は知っていた。
実直で理知的な優しい子だ。
「…そうね、難しいわね」
じっと考える。
どうするのが一番良い方法なのだろう。
どうすれば、このもつれた細い糸が解けていくのだろう。
「…一度、その男の子と話してみましょうか」
こんな風に首を突っ込むのは誤りなのだろうか。
過ぎたお節介なのではなかろうか。
何が正しくて、何が間違っているのか。
今の無月には分からない。否、きっと物事の正否など、誰にも分からない。
「本当に?いいんですか?」
ただ少なくとも、眼前の少女は無月の提案に、ひどく安堵しているようだった。
一人で抱え込むには大き過ぎるストレスだったに違いない。
「勿論、あなたたち皆が納得してくれたら、だけど」
「私、二人に話してみます」
「えぇ、無理はしないでね」
少女は大きく頷くと、「また明日!」と駆けて行った。
「……強いわね」
口の中で思わずそう呟く。
彼女も、友人も、彼氏も。悩みながらそれでも必死に答えを探そうともがいている。
自分にできることはただ、彼らの味方でいることだけだ。倒れそうなとき、そっと支えになるだけ。
それがどれほど難しいことか、実感している最中ではあるけれど。
そろそろ出ようと昇降口の方へ足を向けると、またもや背後から呼び止められた。
「あれ、藤泉院先生、偶然だな。今帰りですか?」
しまった、と無月は内心息を飲んだ。
十分注意していたというのに、あと少しというところで油断してしまったらしい。
そもそも、職員室ではなく教室で採点をしていたのは、彼の目を避けてのことだった。
「お疲れ様です、斎藤先生」
努めて何気なく挨拶を返し、「お先に失礼します」と頭を下げるも、「俺も今帰りなんです」と隣に立たれてしまう。
一緒に歩き出されてしまえばどうしようもなかった。
なるべく目を合わせずに、無月は算段する。
学校から待ち合わせ場所まで歩いて二十分。これまでの経験から言っても彼は付いてくるだろう。いや、大人しく付いてくるだろうか。
飲み会ではしつこく抜け出そうと言い募り、酒の力を借りてまで押し切ろうとする彼が。
隙を出さないことに慣れてしまった無月が、思い通りに動くことはなかったけれど。
「晩御飯食べて帰りましょうよ。良い店知ってるので。あ、あそこでタクシー拾いましょう」
言うが早いか、ぱしっと手首が握られる。
無月は反射的にそれを振り払った。
「やめてください」
冷静な、感情のこもらない声で、それだけ告げる。
こういう輩には大きな声は逆効果だと知っていた。
すると男は、嫌な笑いを浮かべ、まるでこちらに非があるとでも言わんばかりに「落ち着いてくださいよ」と諭す口調になる。
「親睦深めましょうよ。せっかく同じ年に赴任してきたんですから。生徒とばっかり話してないで、俺とも仲良くしてくださいよ」
厚顔無恥も甚だしい論に、無月は苛立つ。
同時に背筋にぞっとしたものが走った。
この手の視線を向けられるのは久しぶりのことだった。
舐めるような、獲物を見定めるような、気味の悪い目。
「失礼します」
無月はなるべく急いでその場を離れようと背を向け歩き始めた。しかし彼の気配は変わらず後ろを付いてきている。
どれだけ歩幅を広げても、ひらかない間。
苛立ちと悔しさとおぞましさで無月は泣き出しそうだった。
しかし、ここで感情を晒してしまえば全てが彼の思うつぼになってしまう。
ひどく言い返すのも得策ではない。
言い寄られることには慣れている。
後をつけられることにも、不躾な視線を寄越されることにも。
思い出したくもない事件に巻き込まれたことだって、一度や二度ではない。
しかし、何度経験しても、何度耐えても、嫌なものは嫌だった。
恐ろしいという感情に耐性などなかった。
怒りだって恐怖だって湧いてくる。
「…何だっていうのよ」
なるべく気丈に口の中で呟く。自分自身を鼓舞するように。
こんな男が何だというのだ。
繰り返し心の中でそう唱える。
しかし、どれほど背筋を伸ばしても、涙はせり上がってくるばかりだ。
遠くを見つめ、沈みかけの太陽に目を細める。
とにかく暗くなる前に。その一心で。
そのとき、無月の瞳がきらりと見開かれた。
明るい夕焼けを背に、脇目も振らず駆けてくる彼。
思わず、無月も走り出していた。
零れた涙が一滴空中で光る。
まるで時が切り取られたかのようだった。
眼前の青年は変わらない。
七年前のあの日から。
困っているとき、泣きたいとき、何故か一番に、彼に見つかってしまう。
どんなに離れていても、どこへ連れ去られても、こうして駆けつけてくれる。
そうして名前を呼んでくれるのだ。
「無月さん!」
無月はまっすぐ彼の腕に収まった。
世界で一番安心するその場所に。
「…嫌な予感がしたんです。大丈夫ですか?」
彼の匂いがする。
優しくて懐かしい匂い。
涙も不安も何もかもが、嘘のように引いていった。
「大丈夫。颯馬さんが、来てくれたから」
頭上で彼が微かに笑う気配がした。
空気の揺れさえ心地良い。
そのとき、追いついた男が、困惑と苛立ちを煮詰めた声で、二人に問いかけた。
「そりゃないでしょ藤泉院先生。彼氏いないって言ってたじゃないですか」
それは確かに無月の非だ。
職場では、そう嘘をついているのだから。
悪意はなくとも、嘘は嘘だ。
「…すみません」
颯馬の手を離れ、頭を下げる。
あまりに素直に謝られ、男はまごついているようだった。
その隣で、颯馬も一緒に謝罪する。
「彼女に嘘をつかせているのは僕なんです。すみませんでした」
三年前、無事大学を卒業した無月は、颯馬より一足先に、教師としての道を歩き始めることになった。
そして、ある程度覚悟していた通り、無月の容姿、雰囲気は良くも悪くも目立ち過ぎた。
教員同士の挨拶では、誰もが放心状態で、食い入るように彼女を見つめ、初めての全校挨拶では館内が水を打ったように静まり返った。
「藤泉院無月」という新任教師の名は、その日のうちに県内外の教員界隈に伝わってしまったのだ。
幸いにして、騒ぎはすぐに沈静化し、大きな混乱は避けられたけれど。
颯馬の思うところでは、藤泉院家、春乃宮家、成宮家より適度な圧力が加わったに違いない。
しかし、彼女が注目の的であることに変わりはなかった。
偉い方が何かにつけて面会を申し込んでくることも珍しくなく、学校生活に馴染むまで人の数倍の努力を要した。
故に二人は、こう決断した。
少なくとも、颯馬の面接が終わるまでは、二人の関係を秘密にしておこうと。
颯馬としても、「あの藤泉院無月の恋人」という色眼鏡で見られたくはなかった。
自分の実力だけで、勝負をしたかったのだ。
颯馬の名を出さず、恋人はいると答えても良かったのだが、それは無月が嫌がった。
相手の名を出すまで追求を逃れられないとき、もしかしたら誤魔化すためだけに、他の誰かの名を出すことになるかもしれない。
そんなのは耐えられなかった。
そうして昨年、彼もようやく教師となった。
怒涛のような一年を過ごした。
無月も新しい高校に赴任し、二人共に余裕のない日々を送ってきた。
ほとぼりが冷めたら、もうあと一年ほどしたら、二人の関係を徐々に告げても良いかもしれない。
そう話し合うようになったのは、つい最近のことだ。
「……紛らわしい嘘つくなよ」
そう吐き捨て、男は歩き去った。
無月は更に深く頭を下げる。
そんな無月の肩に、颯馬はそっと手を回した。
「…すみませんでした、無月さん」
無月は首を振る。
颯馬は悪くない。
あんな男に目を付けられ、適当にかわすことさえできなかった自分が悪いのだ。
それなのに、一緒になって頭を下げ、相手の機嫌を逆なでしないよう努めてくれた彼は、やはり誰より理性的で、誰より優しい。
無月の職場での立場を、一番に考えてのことなのだろうから。
あんな男でも、仕事の上では今後も付き合っていかなければならない。
禍根を残せば周囲にも悪影響を与えてしまう。
「…颯馬さんは、本当に優しいわね」
「え?」
きょとんとする颯馬に、無月は声を立てて笑い、その手を引いた。
「さぁ、帰りましょう?」
きらきらとした光の中で、彼女の短い髪が楽しげに揺れる。
これまで、数え切れないほどの夕日を共に見送ってきた。
あるときは手を繋ぎ、あるときは噛み合わない感情にもどかしさを感じ、またあるときは寄り添い合いながら。
きっとこの先何千回、何万回と、こんな日々を共に過ごすことになるのだろう。
どちらかの歩みが止まるまで。
願わくば、そのときが同時であれば良い。
颯馬はそっと目を閉じた。
「無月さん」
振り返ると、これまで見たことのない表情をした彼がそこにいた。
静かで、熱くて、柔らかで、激しい、そんな感情が全て彼の瞳にこもっていた。
「結婚、しましょう」
この先を共に生きていく覚悟。
それができているかなんて、颯馬には分からない。
稼ぎだってまだ十分とはいえない。
ただ、分かっていることが一つだけある。
どんな運命にあっても、自分たちは生涯、互いの隣を歩くことになる。
未来視のように、それだけは分かっていた。
「…結婚してください」
風に包まれた二人は、知っていた。
目に見える繋がりだけが全てではないと。
しかし、生涯を共にする口実にこれほど適したものはない。
何より、これほど美しい夕焼けの日は、もう二度とこないだろう。
「…えぇ、そうしましょう」
無月は驚かなかった。
思いもよらない言葉だったけれど、すっと染み入るように納得してしまった。
こんな展開、今朝の自分が見たら、腰を抜かしてしまうかもしれない。
しかし、今なら分かる。
きっと今日が二人にとって最良の日だったのだ。
急なことだけれど、途中で受け取って帰る誕生日ケーキに、もう一つロウソクを足してもらおう。
二人の新たな門出を祝して。




