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見舞い


 無月は、蜜華、一葉とともに成宮家の病院に留まることに決めた。

 頭部の傷も浅く、脳にも異常は見られなかったため、医師は自宅での療養を勧めたのだが、彼女はそれを受け入れなかった。

 そのため、一室をそのまま三者にあてがい、特別なリハビリを要する槙は、別の病棟へ移っていった。とはいっても、同じ敷地内であったため、一葉は松葉杖をつけるようになると、すぐに見舞いに向かうようになった。


「見舞いが必要なのは、彼女の方ですわ」


 一葉が「兄の様子を見てきますね」と病室を後にするたびに、蜜華はそう悪態をついた。そしてその声には、確かに心配げな表情が隠されていた。

 無月はそれを、不思議に思う。蜜華が悪態をつくこと、それ自体が珍しかった。その上、彼女が他人に興味を示しているところを、無月はこのとき初めて見たのだ。


「蜜華は、一葉さんのこと、嫌っているのかと思っていたわ」


 思わず、ぽつりとそう零せば、蜜華はきまり悪そうに視線を逸らした。


「…嫌いですわ、勿論。ですが、彼女は無月を守ってくださいましたから」


 無月は、窓辺から蜜華の枕元へ移動すると、その頭をそっと撫でた。


「分かるわ。彼女はどこか人を惹きつけるところがあるのよ。私や日向とは違う、まるで太陽みたいな魅力が」

「無月様の悪口は許しませんわ。例えそれがご本人であっても」


 そう言うと、蜜華は悪戯に笑った。


「無月様は、まだ、気づかれていないだけですわ」


 その優しさに。その、強さに。

 夏の風がふわりと病室のカーテンを舞いあげる。

 無月は、午後に訪ねてくるという一葉のクラスメイトたちに想いを馳せた。

 毎朝高校に通い、勉強をし、部活動に励み、友達と遊びに出かける、そんな彼らは一体どんな姿をしているのだろう。

 会うのが少し怖くもあり、それ以上に楽しみでもあった。

 当初、無月は蜜華とともに席を外すつもりだったのだが、一葉は心底不思議そうな顔をした。


「え?どうしてですか?できればお二人に紹介したいなと思っていたんです。みんな面白い子ですよ」


 その屈託のない笑顔に、無月はつい頷いてしまったのだ。


「そういえば、何も用意していなかったわ。何か摘めるものがあった方がいいわよね?ちょっと下へ行ってもらって来るわ」


 そう言って立ち上がった無月を、蜜華は心配そうに見つめた。


「お一人で出歩かれるのは危険ですわ」

「この病院で危険なことなんて起こりっこないわよ」


 くすくすと笑いながら、「すぐ戻るわ」と無月は病室を後にした。



――――……



 一階の売店へ降りると、無月は売り子の女性に声をかけようとした。しかし、無月が声を発するより先に、その女性は呆然としたあとすぐにバックヤードへと入ってしまった。

 どうしたものかと思案していると、すぐに一人の男性が裏手から顔を覗かせ、またしてもその目を丸くして引っ込んでしまう。


「あの…すみません」


 勇気を持って声を発すると、ばたばたと裏手から足音が聞こえ、「どなただろう」「誰が行く」と相談する声がかすかに聞こえてきた。

 無月は困り果ててしまった。思えば、一人で買い物をするのは、初めての経験だった。

 すると、そのとき、「すみません」という声が、無月の背後から聞こえた。「は、はい!」と先ほどの女性が出てくるのと、無月が振り返ったのはほとんど同時だった。

 声の主は、一人の少年だった。少年とはいっても、背丈は無月よりずいぶん高く、声もしっかりしている。短く刈り込まれた髪に日に焼けた肌が印象的な少年だった。


「何か買おうとされてましたよね」


 少年は、顔色一つ変えずに無月に問いかけた。


「え、えぇ」


 戸惑いながらも、無月は頷く。


「あの、この袋を一つと、この包みを一つ」

「か、かしこまりました」


 視線は無月に釘付けになりながらも、女性は言われたものを包んだ。


「八百五十円になります」


 無月がカードを手渡すと、女性は手を震わせながら頭を下げた。


「も、申し訳ございません。当店は、カードはご利用いただけなくて…」


 無月は眉を下げた。


「困ったわ…」


 その表情を見ると、女性はすぐさま「そ、それでは支払いは結構です」と包みを手渡した。

 すると、背後にいた少年が、その手を押し留め、代わりに千円札を差し出す。


「お願いします」

「は、はい。百五十円のお戻しでございます」


 おつりを受け取りながら、少年は頭部に包帯を巻いた無月に怪訝な目を向けた。


「送ります。病室はどこですか」

「北棟よ…あの、ありがとう。お金は病室で返すわ」

「友達の病室も北棟なので、ちょうど良かったです」


 そう言うと、少年は無月から包みを受け取り、歩き始めた。


「お見舞い?」

「はい」

「そうなの」


 言葉少なに淡々と話す少年は、無愛想なほどだった。しかし、不思議と気まずさや居心地の悪さは感じなかった。



――――……



 病室へと戻ると、そこには一葉、蜜華の他に、一人の少女と、明らかに高校生ではない男性がいた。


颯馬そうま!」


 少女と一葉が叫ぶのと、少年が何か納得したかのように「あぁ」と呟くのは同時だった。


「この人が『無月さん』だったのか」

「見たら気づくでしょ!普通!」


 そう言って、少女は無月の元まで駆けてくると、「私は一葉の同級生のほり夏希なつきって言います!あそこにいるのは兄の佐月さつきです」と自己紹介した。

 ショートカットの、溌剌とした笑顔の眩しい少女だ。一方、一見冷たそうな印象を持つ兄は、訝しげに無月を見つめている。


「これは驚いたな。本当にこんな顔の人間が存在しているとは…特殊メイクじゃないのか?」

「本当にね」


 兄妹に遠慮なくじろじろと見つめられ、無月はどうしたら良いのかも分からず、おろおろと視線を彷徨わせる。

 こういったことには敏感な蜜華も、何故か止めずに、ともすれば微笑ましげに見守っていた。

 結局、最も重症な一葉が、松葉杖で二人を叩くことになった。


「二人とも!失礼でしょ!無月さん、すみません。悪い人たちではないんです」


 無月は「い、いえ…」と首を振るので精一杯だった。

 そのとき、ずっと黙っていた少年が、「これ」と無月に包みを差し出した。


「あ、それは、皆さんでいただこうと…」

「分かりました」


 無月が伊勢に小銭を持って来させる間に、少年、颯馬は備え付けの皿に中身を広げた。


「颯馬さん?」

「はい」

「あの、さっきはありがとう。これでちょうどだと思うのだけれど」


 颯馬は八百五十円を受け取ると、「はい、ちょうどです」としまった。


「颯馬、こんな綺麗な人に八百五十円も奢らないの?」


 夏希が茶化すと、一葉も笑った。


「颯馬はお姉さんたちが皆美人で苦労しているから、女の人の見た目には無頓着っていうか、ちょっと冷めてるんです」


 無月が内心信じられない思いで「そうなの」と呟くと、颯馬は「そんなんじゃないです」と首を振った。


「ただ、お金のことは、きちんとしたいだけです」

「お金が絡むと友達同士ですらややこしくなるからね」


 それまで黙っていた佐月が、ひょいとお菓子を摘んだ。


「颯馬は本当にしっかりしてるよ」

「お兄ちゃんに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいね」

「お兄ちゃんだって、真面目に仕事してるだろ」


 蜜華と無月が賑やかな面々を呆然と見つめていると、一葉がこそっと耳打ちした。


「佐月さんはパン屋さんなんです」

「パンを作られているの?」

「そうなんですよ」


 いつの間にか、佐月は三人のそばに腰掛けていた。


「是非、いつでも食べに来てください」

「お兄ちゃん、近い!」


 夏希に引き剥がされながら、佐月はへらへらと笑う。


「…すみません、兄が。まぁ、こんな兄ですけど腕は確かですし、仕事に対しては真面目ですから、もし、パンがお嫌いでなければ是非!」

「えぇ、もし、ご迷惑でなければ…」


 無月は、笑い出しそうになるのを必死にこらえていた。生まれてこのかた、これほど可笑しいと思ったことはきっとない。

 それを感じ取っているのだろう。蜜華からも日頃の刺々しい気配はすっかり削げ落ちていた。


「お茶はいりました」


 淡々とお茶を並べる颯馬に、佐月は「颯ちゃんは良いお嫁さんになるぞ〜!」とまとわりつく。

 それを鬱陶しそうにしながらも、颯馬はそのとき無月の前で、初めて声を立てて笑った。



――――……



 その夜、静かになった病室で、無月は蜜華のそばにそっと腰掛けた。

 一葉は寝ているのだろう。静かな寝息が聞こえてくる。


「蜜華、私、明日が楽しみすぎて眠れないの」


 蜜華は一葉を気遣って、くすくすと小さく笑った。

 明日、無月は早速佐月のパン屋に行くことになったのだった。それも、颯馬と二人で。

 一葉と蜜華はまだ病室から出られない、夏希は彼氏と用事が、それなら、部活帰りの颯馬が適任だ、と流れるように決まってしまったのだ。

 迷惑ではないかと颯馬に問いかけるも、彼は、「いえ、それほど遠くもないので」と、何でもないことのように答えた。

 反対するであろうとふんでいた蜜華でさえ、「彼と合流するまでは伊勢さんに付いていてもらうべきですわ」と口を挟む程度だった。

 結局、夕方伊勢とともに颯馬の高校まで行き、そこから二人でパン屋へと向かうことになった。

 無論、見えないところから見張られはするのだろうが、それにしても、こんなことが許されるとは、と無月は内心驚いていた。

 そういえば、入院してからこちら、実家から何か言って寄越すこともなかった。ただそこに、使用人の伊勢が、静かに控えているに過ぎない。

 無月の思案げな表情を、明日への不安と取ったのか、蜜華は「考えても仕方がないことですわ」と励ました。


「無月様も、日頃のことは忘れて、楽しんで来てください」


 そうして嬉しげに、そして少しだけ、寂しげに笑った。


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